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道命阿闍梨

道命阿闍梨の熊野関連の歌

 道命阿闍梨(どうみょうあじゃり、974~1020)は平安時代中期の僧。藤原道綱の子で、若き花山天皇を策謀によって出家させて摂政の座に付いた藤原兼家の孫にあたります。
 幼くして比叡山に登り、慈恵の弟子となります。長保3年(1001)に延暦寺総持寺阿闍梨となり、長和5年(1016)、天王寺別当などを歴任。47歳没。家集に『道命阿闍梨集』があります。中古三十六歌仙のひとり。

道命阿闍梨の法華経読誦

 道命は法華経読誦にすぐれ、その声は美声で、聞く人はみな随喜賛美したといわれます。『今昔物語集』巻第十二の第三十六話には、道命とともに寺に籠りあわせた一老僧の見た夢として、蔵王権現・熊野権現・住吉明神・松尾明神が道命の読経を聴聞したことが語られています。

 道命はまた好色ぶりでも知られ、和泉式部との関係も伝えられます。『宇治拾遺物語』冒頭(巻第一の第一話)には、和泉式部のもとに通い、臥したあとに法華経を読誦した話がありますので、現代語訳してご紹介します。

道命阿闍梨、和泉式部のもとにおいて読経し、五条道祖神、聴聞のこと(現代語訳)

 今は昔、道命阿闍梨といって、藤原道綱の子で、色にふけっていた僧がいて、和泉式部のもとに通っていた。経をめでたく読む僧であった。
 ある夜、和泉式部のもとに行き、臥していたが、目が覚めて、経を心澄ませて読んでいるうちに、法華経八巻を読み終えて、明け方、うとうとしているときに、人の気配がしたので、「あなたは誰か」と問うたところ、「私は五條西洞院のあたりに住む翁でございます」と答えた。
 道命が「これはどういうことか」と道命が言ったところ、「お経を、今宵、拝聴できたことは、いつの世までも忘れられないほど有り難いのです」といった。

 そこで、道命が「法華経を読みたてまつるのは、いつものことである。なぜ今宵に限って、そのようなことを言われるのか」と言ったところ、五條の道祖神がいうには「身を清めてお読みになるときは、梵天・帝釈天を始め高貴な方々がご聴聞なさるので、私などが近くへ参って拝聴することは、思いもよらぬことです。今宵は、御行水もされずに、お読みたてまつりになられたので、梵天・帝釈天も御聴聞なされないので、私が、近くに参って拝聴するできましたことが、忘れられないほど有り難いのです」とおっしゃった。

 そういうことなので、なにということもなく読みたてまつるときでも、身を清くして読みたてまつるべきである。「念仏・読経、四威儀を破ることなかれ」と、恵心僧都(えしんそうず:平安時代中期の僧。『往生要集』の著者)も戒めなさっていることである。

拾遺和歌集より

 それでは道命阿闍梨の熊野関連の歌を。『後拾遺和歌集』から2首。

1. み熊野の浦の浜木綿

   熊野へまい(ゐ)るとて、人の許(もと)に言ひつかはしける /道命法師

忘るなよ忘ると聞かば み熊野の浦のはまゆふうらみかさねん

(巻第十五 雑一 885)

(訳)忘れないでください。もし忘れたと聞いたならば、熊野の浦の浜木綿のように重ね重ね恨みますよ。 熊野へ参るときに知人に送った歌。

 「み熊野の浦の浜木綿」は「かさねん」を起こす序詞として用いられています
 浜木綿は、ハマオモトのこと。海辺に生えるヒガンバナ科の多年草。花が、木綿(ゆう。コウゾの皮の繊維で作った白い布)でできているかのように見えることから浜木綿(はまゆう)というそうです。幾重にも葉が重なっているので、「幾重なる」「百重なる」などを起こす序詞となりました。

2. 錦の浦

   錦の浦といふ所にて/道命法師

名に高き錦の浦をきてみればかづかぬあまは少なかりけり

(巻第十八 雑四 1075)

(訳)名高い錦の浦に来て見ると、褒美を与えられない海人は少なかったよ。水中に潜らない海人が少ないように。

 錦の浦は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の海浜。

 「錦の浦」に錦衣を見立てて詠んだ歌。
 「浦」に「裏」を掛ける。「きて」に「来て」と「着て」を掛ける。
  「かづかぬ」に「被かぬ」と「潜かぬ」を掛ける。「被く」は、貴人から褒美として賜った衣類などを肩にかけること。「潜く」は、水中に潜ること。
 「海人」に「尼」を掛けるか。

『詞花和歌集』より

 『詞花和歌集』より1首。

1. 熊野詣の道中

   熊野へ詣でける道にて、月をみてよめる/道命法師

みやこにてながめし月のもろともに旅の空にもいでにけるかな

(巻第十 雑下 387)

(訳)都で眺めた月が、私と一緒に旅の空に出たのだなあ。

『千載和歌集』より

 『千載和歌集』より1首。

1. 熊野詣の道中

   修行に出(い)でて熊野にまうでける時、人につかはしける /道命法師

もろともに行く人もなき別れ路(ぢ)に涙ばかりぞとまらざりける

(巻第七 離別歌 487)

(訳)一緒に行く人もない別れ路に、涙だけは留まらずについてくることだ。

(てつ)

2003.4.22 UP
2003.5.25 更新
2020.5.20 更新

参考文献