み熊野ねっと

 熊野の歴史や文化、観光名所、熊野古道の歩き方、おすすめの宿などをご紹介しています。

南方熊楠が夢見た地域の未来

 

和歌山大学南紀熊野サテライトの学部開放授業のために用意した原稿

2015年1月24日(土)、和歌山大学南紀熊野サテライトの学部開放授業「紀州郷土学D」の中島敦司先生の授業「エコロジーと自然環境」でゲスト講師を務めさせていただきました。このときのために準備した原稿です。
南方熊楠の自然保護運動について話をさせていただきました。

和歌山大学南紀熊野サテライトの学部開放授業

こんにちは。只今ご紹介いただきました大竹哲夫と申します。
本日は、南方熊楠の自然保護活動についてお話しさせていただきます。よろしくお願いいたします。

(中略)

熊楠については地元田辺が誇る偉人ですので、みなさん、ご存知だと思うのですが、顕彰館や記念館からの情報発信はもちろんありますが、それ以外の所からの地元からの情報発信が少ないなと感じています。

熊楠は難しいことも考えていますので、熊楠は学者が研究するものみたいな空気もあるのかなと思いますけれども。

ですけれども、熊楠は、熊野地方にとってとても大切な人物ですので、私は学者でもないですが、遠慮せずに情報発信しています。

熊楠は熊野という地域に愛と誇りを感じていました。だから30代半ばに勝浦移住して以降、海外での仕事の誘いなどもありながらも亡くなるまで熊野で暮した。

熊楠の学問は英語での論文発表が中心ですが、熊楠の論文の署名には"KUMAGUSU MINAKATA"と書いた後に"Tanabe, Kii, Japan"と書かれています。那智時代のものには"KUMAGUSU MINAKATA Mount Nachi, Kii, Japan"と書かれています。

自分が暮らしている熊野という場所が熊楠にとって大きな意味を持っていました。

ですので、熊楠を知ることは熊野の価値を知ることにつながります。

熊楠が愛し、誇りに思った熊野という地域の価値を、地域の住民が共有することができれば、熊野はもっともっと豊かな地域になれると、そう思います。

まず南方熊楠がどれほどすごい人物なのか、いちおうご紹介しておきます。

現在、世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』、去年小保方さんのスタップ細胞で話題になっていましたが、その『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載された研究者が南方熊楠です。
熊楠の『ネイチャー』掲載論文数は五十篇。これは一研究者の論文掲載数としては歴代最多です。日本人最多とかのレベルではなく、世界最多です。
南方熊楠は、幕末、明治になる前年、慶応三年(1867年)の生まれです。ですので熊楠は江戸時代生まれの人物です。
江戸時代生まれの日本人である熊楠が英語で論文を書いて『ネイチャー』掲載論文数歴代最多の記録をいまだ保持し続けています。

それから変形菌、昔は粘菌といいましたが、日本の変形菌の研究の先駆者で、同じく変形菌の研究者であった昭和天皇に尊敬され、昭和天皇自らが会うことを希望し、天皇が会いたくて田辺まで会いに来て、教えを請うた。そういうすごい変形菌の研究者でした。

それから柳田国男と共に日本の民俗学を創始した民俗学者でもありました。柳田国男は熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人」と述べています。柳田国男はまた熊楠のことを、日本人の可能性の極限かとも思い、また時としてそれ以上かとも思うと称賛しています。「日本人の可能性の極限かとも思い、また時としてはさらにそれよりもなお一つ向うかと思うことさえある」

そして、今からおよそ百年前にエコロジーという言葉を使って熊楠は自然保護運動を行った自然保護運動の先駆者でもあります。エコロジーを日本に初めて紹介した人はまた別の人(東京帝国大学教授の三好学)ですが、エコロジーという言葉を使って自然保護運動を行ったのは熊楠が日本で最初です。

今から百年ほど前、明治の末期、明治政府により神社を整理統合して1町村に1社だけにするという神社合祀政策が進められました。

現在、最も神社の数が多い都道府県は、平成23年の文化庁の調査によると、新潟県で、4764社。2番目に多いのが兵庫県で、3866社。

逆に、最も神社が少ない県はどこでしょう?
沖縄県で、13社。沖縄は明治より前は別の国だったので当然神社は少ないです。

2番目に神社が少ない県はどこでしょう?
和歌山県で、445社。新潟の10分の1以下です。

お隣の三重県は神社数が854社で38位で下から10番目。10番目に神社が少ない県です。

明治末期に行われた神社合祀のために和歌山県は全国的にとても神社の少ない県となってしまいました。

神社合祀の実施は各都道府県の知事に任されたので、都道府県により合祀を激しく行った場所、あまり行わなかった場所がありました。
新潟県は神社合祀に消極的で、そのために現在、最も神社が多い県となっているのだと思います。
それに対して熊野地方を含む和歌山県と三重県では激しい合祀が行われました。

神社合祀政策が進められる前年(明治38年 1905年)には、和歌山県には5836社の神社がありました。今の新潟以上の数の神社がありました。それが神社合祀政策が進められて7年後(大正2年 1913年)には442社に。和歌山県ではおよそ92%の神社が潰されました。
お隣の三重県では、10413社あった神社が7年後には1165社に。三重県ではおよそ89%の神社が潰されました。
和歌山県統計書. 明治42年 和歌山県統計書. 大正2年 (和歌山県統計書. 大正7年
三重県統計書. 明治42年 三重県統計書. 大正2年 (三重県統計書. 大正7年

全国では約20万社あった神社の13万社ほどになりました。全国ではおよそ35%の神社が潰されました。それに対して和歌山県と三重県ではおよそ90%の神社が潰されました。

伊勢と熊野のある三重と和歌山で、なぜこれほどまでに神社が潰されなければならないのかと熊楠は嘆いています。

熊楠が住む田辺の町では熊楠がいたおかげでまだ比較的神社が守られたほうですが、中辺路町や新宮や本宮、日置川の辺ではではひどい神社合祀が行われました。

私の住む本宮町の三里地区は明治時代には三里村というひとつの村で、14の神社があって、それが神社合祀により1社にまとめられました。

三里村といっても江戸時代には三里郷と呼ばれていまして、11の村からなりました。ですので面積も広く、その広い面積に神社が1社だけと、無茶苦茶な神社合祀でした。

地域住民が大切にしてきた神社がどんどんつぶされました。氏子が泣いて悲しむ中、神社の森が伐採されるということが行われました。

熊野古道は今でこそ世界遺産としてその価値を広く世界に認められましたが、明治時代にはその価値がまったく認められていませんでした。

熊野古道沿いには、王子社という熊野の神様の御子神を祀る神社が多数ありました。熊野古道の起点である大阪市の淀川河口から熊野三山までには、およそ100社ほどの王子社がありました。

熊野の入口である田辺から熊野本宮まで二十数社の王子社があったのですが、明治時代の神社合祀で潰されなかった王子社はわずかに2社だけです。八上王子と滝尻王子、これだけ。他はすべて潰されて森が伐られました。

熊野というのはかつては日本の宗教の中心地でした。
平安時代末期に院政という新しい政治の仕組みを作った白河上皇は熊野を9回詣でました。その後の鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回。往復1ヶ月くらい掛かる熊野詣を1年に1回くらいは行っています。

上皇だけでなく、そのお妃さまやまた貴族や武士も熊野を詣でました。平清盛も何度か詣でていますし、重盛も維盛も何度か詣でています。その当時の国を動かす人たち、今で言えば内閣総理大臣や閣僚、官僚のような人たちが何度も何度も熊野を詣でました。熊野とはそういう日本にとって特別な場所でした。

熊野詣での道中で上皇さんたちはそれぞれの王子社にお参りされました。王子社はとても歴史的に価値のある神社ですが、熊野ではそのほとんどすべてが神社合祀で破壊されました。

熊楠は、サンティアゴ巡礼道(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)のことも文章の中に書いていて、その文章のなかでは熊野古道のことにも触れています。この二つの道はいま世界で2つの世界遺産の道となっています。今から100年ほど前に熊楠は、熊野古道がサンティアゴ巡礼道に匹敵するほど価値のあるものだということがわかっていました。

明治の末期には、合祀されて潰された神社の森だけが伐られたのではなく、潰されずに残った神社の森の木々も伐られました。田辺の闘雞神社は大きな神社なので、潰されることはなかったのですが、森は伐られました。
闘雞神社には25本の楠があったといいますが、熊楠が気が付いたときには3本しか残されていなかった。熊楠が抗議してそれ以上の伐採は食い止めましたが、闘雞神社の森が伐られるなんてことは熊楠も想像もしていなかったのだと思います。
いま田辺市の天然記念物に指定されている2本の楠は熊楠が守った木です。

神社の木は普通伐れないです。熊野には神の森といって森そのものを神社とする社殿のない神社がありました。たとえば神島は神島明神森と呼ばれ、社殿のない神社でした。古代の日本人が神様と出会う場所というのは建物のなかではなく、森のなかにぽっかりと空いた、木々に囲まれた空間であったろうと想像されます。

おそらくは森の中にぽっかりと空いた空間が神社の始まりでした。
神の森というものを残してきた熊野の人たちには神社の森の大切さがわかっていたはずです。本来森そのものが神社でした。

それなのに、なぜこんなひどい神社の森の破壊が行われたのか。

それは、まず明治の初期に、熊楠が小さな子供の頃ですが、明治の初期に神仏分離が行われました。神様と仏様を一体のものとして祭る神仏習合は日本人のなかで自然発生的に生まれた信仰の形ですが、それを明治政府は否定し、破壊しました。

これにより日本人の心が変わりました。とくに熊野は神仏習合の霊場として栄えてきた場所ですので、熊野の人たちの心に神仏分離が与えた影響というのはとても大きかったはずです。

神仏分離では神様と仏様が分離されただけでなくて、神様の分離も行われました。記紀神話や古い文献に名前のある国家が認めた神様と、その他のわけのわからない神様とに、神様が分離されました。

紀伊続風土記という江戸時代の紀伊国のガイドブックのような本があるのですが、その本を読むと、神社の祭神は不詳、どんな神様かわからないというのが多いですが、そのようなわけのわからない神様は明治の神仏分離で、遅れた、価値の低い神様というようになった。

日本人の心を国家権力の管理下に置くために明治政府はそれまでの信仰を破壊しました。

そして日本の独自の精神的支柱として新たな神道を確立しようとしましたが、西欧列強にキリスト教布教の自由を求められ、神道を国の宗教とすることはできず、神道は宗教ではなく道徳だとして国民への普及を図りました。

この神道は宗教ではないとしたことも、神社の破壊を進めていった原因のひとつであったろうと思います。

神様というのは本来人間の道徳などは超越した大きな存在であったはずですが、宗教性を薄められ、人間の道徳に収まる小さなものにさせられ、神様を怖れ敬うというような感覚が失われていったのだろうと思います。

明治政府の基本方針は神道は宗教ではないということでしたが、熊楠は神道は宗教だと言い切っています。神道を道徳とするか宗教とするかで、神社という場所の意味合いが全然違う。

道徳であれば神社は宗教色が薄められて世俗的な場所となるし、宗教であれば神社は聖なる場所になる。道徳ということで世俗的な場所となれば目先の経済的な理由で人は判断するようになります。

経済的な理由ということでいうと、やはり木がお金になりました。とくに楠がお金になったということがあります。

当時、日本は、楠の木片を蒸して作られれる樟脳というものの世界最大の輸出国でした。樟脳は日本にとって重要な外貨獲得商品でした。

樟脳のことをカンフルと言いますが、樟脳は強心剤として使用されました。それからセルロイドの原料でもあり、樟脳から眼鏡のフレームやおもちゃ、映画や写真のフィルムが作られました。ハリウッドの映画産業の黎明期を日本の楠が支えました。

明治政府が樟脳を専売化して国が生産・流通・販売を全面的に管理して利益を独占する体制にしたのが明治三十六年(1903年)。
神社合祀政策が始まったのが明治三十九年(1906年)。

神社合祀政策は、神社を整理統合して神社の数を減らすという目的で実施された政策ですが、それと表裏一体に、神社の森の楠を伐って樟脳という商品に変えるという目的があったようにも伺えます。

楠は暖かい地方に生えます。そして大きな楠というのは神社の森に生えています。樟脳の生産のために熊野地方の楠が狙われたのかな、と。

神社の木を伐れば一部の人が利益を得られる。そして神様を怖れ敬う感覚が失われたことで、どんどん神社の森が伐られていったのかなと思います。

熊楠の名は王子社のひとつであった海南市にある藤白神社の神主から授かったものです。

藤白神社の神主から名前の1字を授けられるという習俗が当時あって、熊野の「熊」、藤白の「藤」、そして藤白神社に神様として祀られている楠にちなんだ「楠」などのうちから1字が授けられました。

なかでも熊楠は、「熊」と「楠」の2文字を授けられました。熊楠にとって「熊楠」という名前は大きな意味がありました。 
「熊野の楠」が、熊楠という名前の意味するところです。
熊楠の神社合祀反対運動は、まさに「熊野の楠」を守ろうとした戦いでした。

和歌山県三重県でおよそ90%の神社が潰されたわけですから熊楠が守ることができた神社の森はごくわずかですが、それでも熊楠の戦いには意義がありました。

田辺市の神楽神社、日吉神社、伊作田稲荷神社、上富田町の八上王子や田中神社、それから熊野の霊域の入口とされる滝尻王子が今の場所にあるのも熊楠のおかげです。滝尻王子はさすがに大きな神社だったので潰されることはなかったのですが、その代わり別の場所に移転させて滝尻王子の森を伐ろうという計画が立ち上がりました。それを阻止したのが熊楠です。継桜王子は森は伐られてしまいましたが、参道近くの野中の一方杉と呼ばれる杉の巨木8本だけは守ることができました。那智の滝の水源となる森も伐採されるところを熊楠が食い止めました。

残念ながら、熊楠が守った森の多くは、戦後、高度経済成長期に伐採されたり、周囲の環境の変化の影響を受けて衰えたりして、熊楠が守った当時の状態を保っている森はなくて、その点はとても残念なところなのですが。

熊楠のことを少しだけ知っているというようなくらいの人には、熊楠がただ1人で孤独に神社の森を守る戦いを行ったかのような印象を持たれている方もいらっしゃるのですが、実際は地域の人たちとともに戦っています。

熊楠の自然保護運動の象徴である神島に記念碑が建てられています。
神島は国指定の天然記念物で普段は上陸禁止です。上陸するには田辺市の教育委員会の許可がいります。

一枝も心して吹け沖つ風 我がすめらぎの愛でましし森ぞ

と熊楠の歌が刻まれた昭和天皇の行幸記念碑の裏面には
 昭和五年六月一日建之
         新庄村 及
         南方研究所
と刻まれています。
熊楠が昭和天皇とお会いした日のちょうど1年後の日付です。
そして「新庄村 及 南方研究所」と刻まれています。
先ず新庄村の人たちの、神島を守るのだという気持ちと行動があって初めて神島は守ることができたのです。

(近露には野長瀬忠男という人物がいました。野長瀬忠男は近露や野中の神社の森に生える巨木の大きさを測って熊楠に報告したり、新聞で神社の森の保護を訴えたりしています。)

熊楠がいかに世界的な学者であっても、実際の政治力などはないので、地域の人たちが自分たちの神社を守ろうとしなければ、熊楠にもどうしようもありませんでした。

私が住む本宮町の話をさせていただきますと、本宮町は明治時代にはだいたい4つの村でした。4つの村で60社ほどの神社があってそれが4社になりました。1村に1社、神社合祀の基本政策の通りになりました。

本宮村ではだいたいもともと本宮の境内にあった神社を本宮大社に合祀したということらしいので、それほど無茶な合祀ではなかったようですが、四村では23社が1社にまとめられました。三里村では14社が1社に、請川村では12社が1社にまとめられました。

この表には、本宮町史から持って来たのですが、合祀許可の日にち、合祀決行の日にちが書かれています。
合祀許可というのは、形式的には氏子からの合祀申請というのがあって、それを県が許可するという形で行われたので「許可」ということになるのですが、実際は強制的な命令です。

四村では合祀が許可された4ヶ月後には決行している。
本宮村では3ヶ月後には決行している。
三里村では翌月に決行している。

ところが、この請川村が合祀許可がなされてからしばらく合祀を決行していません。

外の村は許可されてから数ヶ月のうちに合祀決行しているのに、請川村は明治43年(1910年)に合祀許可されて、合祀決行したのが大正3年(1914年)、この間、4年あります。4年間も合祀を決行せずにいる。合祀しろと命令されて、4年もその命令を無視している。

他の村が数ヶ月のうちに合祀決行しているのに、なぜ請川村ではこんなことができたのか。

熊野地方全域でめちゃくちゃな神社合祀が行われたなかで、田辺の町の他にも合祀に抵抗し続けた地区があります。上富田町の岡という地区で、県から合祀許可された後も、岡の人達は合祀を行わなかった。合祀しろという命令を無視して、社殿をそのまま残し、森も伐らず、お祭りも続けました。

なかなか役人に逆らうことができなかったであろう時代に、どうしてそのような抵抗ができたのかというと、それにはやはり南方熊楠の応援があったからだと思います。

熊楠はキノコの研究もしていて、熊楠のキノコ研究の協力者4人をキノコ四天王というのですが、その4人のうちの3人が上富田町岡の出身者でした。岡の人達と熊楠の間に交流があったということが大きかった。熊楠の応援があったからこそ、岡の人達は神社合祀に抵抗できたのだと思います。

熊楠は合祀決行をできるだけ引き延ばせと助言しています。いずれ神社合祀政策は中止になるから、それまで合祀決行を引き延ばせと。

請川村の人たちが合祀決行を引き延ばしているのも、南方熊楠からの助言があったのではないかと想像します。

熊楠の友人に田辺で歯医者さんをしていた須川寛得という人がいて、その人が請川村出身なのです。その須川さんの関係で、請川村の人達と熊楠が交流があったのかも。

大逆事件で逮捕されて死刑になった成石平四郎とも交流がありました。
兄の勘三郎も逮捕されて、大逆罪で逮捕されたら死刑しかないのですが、特赦で無期懲役となって、十数年監獄のなかにいたのですが、請川村の人達が勘三郎の仮出獄請願書を出して、仮出獄が許されたのですが、その請願のときに南方熊楠が協力しています。

請川村の人達が神社合祀に抵抗できたのは、熊楠との交流があって、熊楠から助言を受けることができていたからかなと推測します。請川村の人と熊楠がやり取りした神社合祀に関する書簡が見つからないので、はっきりとはいえませんが。

請川村で大正3年で合祀決行がされたのは、合祀しても各地の神社は遥拝所として残していいという県の神社合祀に関する方針の転換があったからです。実質的に残せるのなら合祀してもよいかということで合祀を決行したようです。

熊野じゅうで激しい神社合祀が行われました。今残っている神社、あるいは今残っている神社の跡地はみなそのような歴史をかいくぐってきた場所です。

戦ったのは熊楠ひとりだけではなく、当時の地域の人たちも自分たちの神社の森を守るために戦いました。

ですので、それぞれの地域で、地域の人たちが、百年ほど前にあったそのような歴史を若い世代に伝え、そして地域の内だけでなく外にも伝え広めてていくことをできたら素晴らしいことだな、そういうことをしていただけたらなあと思います。

熊楠は「神社合祀に関する意見」という文章の中で、神社合祀がもたらした悪い結果を8点挙げています。

1 神社合祀は敬神の念を減殺する

2 神社合祀は民の和融を妨ぐ

3 神社合祀は地方を衰微せしむ

4 神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害する

5 神社合祀は愛国心を損ずる

6 神社合祀は土地の治安と利益に大害あり

7 神社合祀は史蹟と古伝を滅却す

8 神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す

この8つのうち自然そのもののことを述べているのは8番目だけです。他は人の心、人間の社会のこと。

集落の神社なんて村全体の面積から見たら小さなものですが、その小さな神社が集落の人々の心を支え、集落を支え、村を支え、人間の社会を支えている。集落の小さな神社の破壊は、人の心を破壊し、人間の社会を破壊する。

熊楠の神社の森を守る戦いは、単に森を守るというだけでなく、人間の心、人間の社会を守る戦いでもありました。

熊楠は、田辺の人たちに、

風景は田辺が一番だ。この風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ。追々交通が便利になったら必ずこの風景と空気が第一等の金儲けの種になるのだ。

この景色と空気で儲ける策を立てよ。

と言っています。

熊楠が夢見た田辺の未来の姿というのは、地域にある自然や文化的な資産を保全しながら観光資源として活用していく、観光で繁栄している町。今風の言葉で言うなら持続可能な観光地。持続可能性に配慮した観光地として繁栄している田辺という町を熊楠は夢見ました。

いま田辺市は持続的な観光地、持続可能な観光地を目指していますが、それは今から百年ほど前に熊楠が夢見た地域の未来です。

地域の自然やその他の資源を守りながら観光資源として活用していくという熊楠が訴えていたことはサステイナブルツーリズム(持続可能な観光)の考え方そのものです。熊楠は100年ほど前にそのことを訴えています。

観光というのは観光関連事業者だけから成り立つものでなく、農林水産業や製造業、サービス業等、裾野の広い産業ですので、熊楠は、地域が観光を大きな柱として地域づくりをして、地域経済を形作っていくことを望んでいました。

和歌山県は観光立県推進条例というのを定め、観光立県を目指しています。和歌山県の観光立県はまだまだ実現されていませんが、和歌山県には熊野と高野山があります。じゅうぶん観光立県できるだけの観光資源はあります。とくに熊野はその観光地としての可能性をまだまだじゅうぶんには引き出されていません。熊野の力はまだまだこんなものではありません。

観光地としてお客様に選ばれるには、もちろん選ばれる理由が必要です。
ただ来てくださいだけでは誰も来てくれません。
そこに行く理由があるから、お客様はそこを訪れるのです。

観光とは光を観ると書きますが、光を示すという意味もあります。こちら側が地域の光、地域を価値あるものを示すということが大切です。

北海道から沖縄から東北から関東から、あるいはアメリカからフランスからスペインから、わざわざここに来るだけの価値を示すことができるか。

熊楠が夢見た、持続可能な観光地として繁栄している地域の未来を実現するには、地域の価値、光を示さなければなりません。

かつては日本の宗教の中心地であったという歴史にはとても価値があります。熊野は日本の歴史や文化に多大な影響を与えました。熊野は日本人の心の故郷です。

そしてまた100年前に地域住民が熊楠とともに神社の森を守るために戦ったという歴史にもとても価値があります。

熊楠の自然保護運動は神社の森を丸ごと守るというものです。

大きな木だけを守ればいいというのではなく、その下に生える小さな木や草やその他の小さな生き物も含めて丸ごと守る。

多様な生き物が複雑に関係を持ちながら成り立っている森全体を守らなければ大きな木も守れないというのが熊楠の自然保護。熊楠は特に腐葉土の重要性を訴えています。神社の森を掃除するなと言っています。掃除すると腐葉土がなくなっていくから木が枯れてしまうと。腐葉土がなくなると、植物の根と共生して植物にリン酸や窒素を供給する菌根菌という菌類が死滅して植物に養分を供給できなくなって木が枯れるのだということです。

菌根菌というのはたとえばマツタケなんてそうです。マツタケは松の根と共生して、松に養分を送る。菌根菌という小さな生き物が大きな巨木の命を支えている。

観光ではお客様に大満足していただくことがもっとも大切なことですが、こちら側からどのようなメッセージをお客様に伝えられるかということも大事。

熊野では観光に自然との共存、共生、あるいは自然だけでなく文化の共生というメッセージも込めることができます。

世界に不用な物はないと熊楠は言います。多くの菌類やばいきんというのは、人がせっかく作った物を腐らせてしまうけれども、菌類やばいきんが全くなければ物が腐らず、世界が死んだ物でふさがってにっちもさっちも行かなくなってしまう、と言っています。

多様なものを多様なままに守ろうとしたのが熊楠の自然保護です。

お客様に熊楠の自然保護運動をイメージさせることができれば、自然の多様性、生物的多様性が自然にとって必要なものであり、また文化的多様性も人類にとって必要なものであるということを伝えることができます。

いま世界の様々な問題、環境問題や地域紛争などをみると、いま世界に必要とされているのは、自然への敬意を根底に置いた宗教の共生ではないかと思います。

熊野ならばそのようなメッセージを発することができます。そのようなメッセージを発するのに、熊野以上にふさわしい場所というのはなかなかないと思います。

熊楠が夢見た持続可能な観光地という地域の未来をいま私たちが目指すことは、たんに、いち地域を豊かにするというだけでなく、日本の未来をよくしていくことにつながります。

私の夢は熊野再興、熊野を再び興すこと。そして日本再生。

東日本大震災が起こり、日本の進むべき方向は変わった。多くの人たちがそれを感じています。

東日本大震災復興構想会議の特別顧問をつとめられた梅原猛先生は「熊野から、自然との共存を根底においた生き方、思想を発信せよ」ということをいわれました。

生命誌研究館館長の中村桂子先生は「紀州が3.11以降の日本再生のリーダーになってください」ということをいわれました。

日本が再生するには、人々の価値観の転換が必要です。熊野が人々の価値観を揺さぶり、人々の価値観の転換を促す場となる。熊野が日本の未来をよくしていくきっかけの場所になる。

熊野をそのような場所にしたいというのが私の夢です。

日本再生というのはめちゃくちゃ大きな夢かもしれませんが、熊野というのはそういうことが期待されている日本にとって特別な場所なんです。

熊野には熊楠がいます。

熊楠はけして終わった過去の人物ではありません。今なお私たちの先を行く未来の人です。

熊楠とともに未来を創造しようという人たちがもっともっと現われてくれたらいいなと思います。

私の話は以上です。ありがとうございました。

てつ

2015.3.16 UP

 





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