西行が桜の歌を詠んだことでも知られる王子社
八上神社。祭神は天照大神。
この神社は、口熊野・田辺から本宮へ向かう熊野参詣道(熊野古道)「中辺路」の道筋にあり、古くは八上王子と呼ばれる熊野九十九王子のひとつでした。
建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の熊野御幸にお供した藤原定家の日記『後鳥羽院熊野御幸記』の十月十三日の条には「次ミス(三栖)山王子、次ヤカミ王子、次稲葉根王子」と八上王子の名があり、それより92年前の天仁2年(1109)に熊野を詣でた藤原宗忠(むねただ)という貴族の日記『中右記(ちゅうゆうき)』の十月二十日の条には「田辺の王子に奉幣後、萩生山口で昼食をとり、山を越えて新王子社に奉幣した」というようなことが記されており、この新王子社が八上王子であることは地理的に見て確実と思われることから、八上王子が天仁2年(1109)ころに設けられた王子であることが推察されます。
八上王子は西行法師(1118~1190)が歌を詠んだことでも知られ、西行の生涯を描いた『西行物語絵巻』にも、西行が八上王子の社殿の瑞垣に歌を書き付ける場面が描かれています。
熊野へまいりけるに、八上の王子の花面白かりければ、社に書きつけける
待ち来つる八上の桜咲きにけり あらくおろすな みすの山風
(『山家集』上 春 98)
(八上王子の辺りの桜の花に出会えるのを期待して来たが、ちょうど咲いていてくれていたよ。三栖山の風よ、強く吹いて花を散らさないでおくれ)
今の八上神社には残念ながら西行が歌心を誘われた桜は残っていませんが、境内には西行のこの歌の碑が2基、建てられています。ひとつは大正5年に建てられたもの。もうひとつが昭和62年に建てられたもの。大正5年のものが読みにくくなったので、その隣に新たに歌碑が建てられたそうです。
三栖山を越え八上王子を経て石田川(いわたがわ)に出るルートは江戸時代には潮見峠越えという別ルートに取って代わられ、八上王子はかつてのにぎわいを失いましたが、それでも土地の人々に産土社として尊崇され、明治時代に神仏分離して神社となりました(神仏分離するまでは八上王子の社殿には御神体として1丈8分の十一面観音が祀られていました)。
神社合祀から地域の住民たちが守った神社
八上王子はその後、明治41年(1908年)に合祀されて廃社となりましたが、氏子住民たちが粘り強く抵抗を続け、7年後の大正4年(1915)に復社を果たすことができました。
田辺在住の世界的博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす。1867~1941)の『南方二書』には以下のように八上王子について以下のように書かれています。
しかして右の八上王子は、『山家集』に、西行、熊野へ参りにけるに、八上の王子の花面白かりければ社に書きつけける、
待ち来つる八上の桜咲きにけり荒くおろすな三栖(みす)の山風
とて名高き社なり。シイノキ密生して昼もなお闇く、小生、平田大臣に見せんとして写真とりに行きしに光線入らず、止むを得ず社殿の後よりその一部を写せしほどのことなり。
(口語訳はこちら)
熊楠は、田辺湾に浮かぶ神島に昭和天皇を迎えて進講した記念に歌碑を神島に建てましたが、八上王子で西行が詠んだ歌を手本にして、その歌碑に刻む歌を作ったそうです。その熊楠の歌は、
一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめでましゝ森ぞ
(一枝も心して吹け、沖の風よ。我が天皇がお愛でになった森であるぞ)
博物学者・南方熊楠がもっとも力を入れたのがきのこ研究ですが、「四天王」と呼ばれた4人のきのこ採集協力者(樫山嘉一・北島脩一郎・田上茂八・平田寿男)のうち、3人までがこの八上神社の氏子だったそうです。
八上神社の社叢(左の写真)は町指定の天然記念物。スダシイを主とした森で、樹齢約500年の杉・イチイガシなども生えています。
11月23日の例祭で奉納される獅子舞は、県指定の無形民俗文化財。
八上神社から800mくらい下手にある摂社の田中神社は大正4年(1915)に八上神社に合祀されましたが、熊楠の「合祀されても神林だけは残しておけ」との助言に従い、神社林を残していたため、後に復社を果たすことができました。
(てつ)
2003.5.18 UP
2009.10.27 更新
2021.2.26 更新
参考文献
- くまの文庫4『熊野中辺路 古道と王子社』熊野中辺路刊行会
- 新潮日本古典集成49『山家集』 新潮社
- 南方熊楠 著、中沢新一 編『南方熊楠コレクション 森の思想』河出文庫
- 紀州語り部の旅 上富田町
八上神社へ
アクセス:JR紀伊田辺駅からバス、紀伊岩田バス停下車、徒歩約20分
駐車場:駐車スペースあり