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平成十六年一月四日に船越神社へ参拝してきた。横浜駅から京急線に乗って三浦海岸方面へ。京急田浦駅で下車する。 景徳寺は臨済宗円覚寺派、観応二年(1351年)の創建といい、開山は夢窓国師の侍者を勤め、後光厳天皇の帰依も受けたという勅諡仏観禅師。本尊十一面観音はかつて現船越神社鎮座地の高台にあった宝珠庵の本尊であった。この観音さまは昔々船に乗せられて船越の入り江に流れて来られたといい、それが船越の地名の由来とされている。明治二十年代に景徳寺本堂に移られたといい、現在は三浦観音二十一番札所のご本尊でもある。 船越神社はこの宝珠庵の守護神社として、足利義満の頃の応安二年(1368年)十月九日に和歌山県新宮市の熊野速玉大社の祭神速玉之男命を勧請した熊野社が前身である。『新編相模風土記稿』(天保五年頃)には「熊野社 村の鎮守なり、例祭九月十九日、景徳寺持ち」とあり、江戸時代まで熊野社の管理は景徳寺が行っていたが、明治三年(1870)神仏分離令により景徳寺から分離している。昭和三年になって日枝神社を合併、昭和九年に船越神社と改称した。 合併した日枝神社は寛文年間(1661〜1673)に船越を開拓した武州久良岐郡金澤の永島祐伯の子孫(代々段右衛門を襲名)が、文政年間(1818〜1830)に江戸麹町の日枝神社大山咋命の御分霊を奉遷して創立したものという。船越の地は永島一族が開拓した土地だが、地震や大水、津波などの災厄に度々罹りその都度荒廃した。それを嘆いた永島家九世段右衛門忠篤が祐伯の開いた金沢泥亀新田を初めとした新田の復興を行ったうえ、当所にも復興も企て、海面に波除の防堤八十二間を築いた。復興に深く神助を感じた忠篤は、明治四年この防堤の突端に日枝大神を奉遷、土地開発鎮護の神社としたものという。 先に景徳寺を参拝。いつ来ても掃除がされており、さっぱりとした雰囲気のいいお寺である。境内には馬頭観音堂などもある。船越には鎌倉道といわれる古道が通っており、この馬頭観音はその近くにあったという。本堂裏手の素掘りのトンネルは大正時代まで使われた船越トンネルである。
景徳寺から十六号線を渡って向かいにある船越神社の参道をあがる。鳥居をくぐって急な石段をしばらく上がる。両側の斜面はコンクリートで固められていて境内には木がほとんどない。石段を上がると本殿が見える。お正月に参ったので、大祓の茅の輪が参道に据えられていた。
茅の輪をくぐってしばし参拝。 山腹であった境内は近年開発で社殿の後と右側にあった丘を削ったため今ではほぼ山頂になっている。私の五年程前の記憶では社殿に向かって右方に建物より高い崖のような丘があったと思うが、現在は平らな境内となっていて、駅方面が見渡せる。 広い境内にはお稲荷さんの社や庚申塔が祭られているほか、和歌山熊野から移植したという御神木のナギの木がある。このナギの木は最近植えられたものでそれ以前はご神木として樹齢三百五十年といわれたイチョウの大木があった。本殿に接して立っていたので社殿の土台を傷めてしまい、平成十四年に伐ってしまったという。
普段は誰もいない社務所にもお正月で番の方がいらしたのでお守りをいただいてきた。一緒に箸を一膳くださったが、何に使うものだろうか。 船越神社は船越地区の信仰と歴史を秘めて鎮座する神社であった。 |
Thanks 日照院さん
2004.1.25 UP
No.200