み熊野ねっと 熊野の深みへ

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熊野の魅力について

新宿熊野ツアーでの熊野ミニレクチャーのために用意した原稿

熊野ミニレクチャー

2018年6月16日(土)、東京新宿で行った熊野についてのミニレクチャーのために準備した原稿です。角筈地域センターの会議室にて開催。


(前略)

私の活動の土台にあるのが「み熊野ねっと」です。なんで「み熊野」なのと聞かれることがあるのですが、み熊野は、み+熊野で、「み」は神のものを表わす接頭語。

神のものを表わす接頭語「み」が冠された地名は古代では、み熊野・み吉野・み越路の3つだけ。み越路は越の国。今の福井県から石川県、富山県、新潟県にかけてです。神聖な土地に「み」が冠されました。「み」にはその土地に対する畏敬や憧憬の念が込められています。

熊野の魅力っていろいろありますが、最大の魅力は、古くから神聖な土地だと考えられていたというところにあると思います。

熊野は神聖な土地だと考えられて、とりわけ皇室からは篤く崇敬されました。天皇家の方々の参詣は百数十回。日本の2大聖地と言えば、伊勢と熊野ですが、伊勢は天皇家のための神社ですが、天皇が伊勢に直接お参りすることは明治より前には1度もありませんでした。それに対して熊野は平安の昔から天皇自身が百度ほどお参りされています。

正式には、天皇というか天皇経験者、上皇ですが。熊野詣には往復20日程度はかかったので、天皇はそんなに長い期間、京を離れるわけにはいかなかったので、熊野にお詣りするのは天皇の位を退いてからということになりますが。鳥羽上皇が21度、後白河上皇が34度、後鳥羽上皇が28度。この3人はほぼ毎年熊野を詣でています。そのお妃さま女院も熊野を詣でたので、天皇家の方々の熊野詣ということでいえば百数十回になります。

そんなこんなで、熊野には「日本第一大霊験所」の称号が与えられました。

日本で一番霊験あらたかな場所。神様にお祈りして、その祈願に対して与えられる御利益が日本一期待できる場所。なんとなく伊勢が日本一なのではと思っている人もいるかもしれませんが、伊勢は霊験を期待できる場所ではありませんでした。たしかに伊勢は天皇家の祖先であるアマテラスオオミカミを祭る日本で最も貴いとされた神社ですが、霊験、御利益は期待できませんでした。

平安時代末期ころ、熊野の神様は伊勢の神様と同じだという考えがありました。神様は同じだけれども、しかしながら伊勢と熊野には違いがありました。伊勢は私幣を禁断、庶民が私的に個人的な願いをかけることを禁じ、仏事をキタン、仏教を忌み嫌っていました。それに対して熊野は庶民の願いを嫌わず受け入れ、シト、仏教徒も受容しました。

伊勢はそもそも天皇家のための神社なので、祈願できるのは天皇家の方々だけで、庶民が伊勢で個人的な祈願をすることはできません。それに対して熊野は庶民の願いを聞き入れてくれて、しかもその神様は伊勢の神様と同じなので、日本一、御利益が期待できた。

熊野は日本一御利益が期待できる霊験あらたかな聖地で、上皇も女院も、貴族も武士も、庶民も、男も女もお参りし、またハンセン病患者や目の見えない人もお参りしました。とくに病人がお参りしたということはすごいことだと思います。治癒の奇跡という霊験を求めて病人たちは熊野を詣でました。

当時はハンセン病とか目が見えないとかは前世に悪いことをした報いだと考えられていたので、そういう人たちを受け入れたのは熊野のすごさだと思います。

それから女性の参詣を積極的に受け入れていたというのもすごいところです。吉野では大峯山山上ヶ岳が今も女人禁制ですし、高野山は明治39年(1906年)まで女人禁制でした。しかし熊野は古くから女性の参詣を積極的に受け入れていました。

室町時代の高野山の文書に、熊野は「他国降臨の神体、男女猥雑の瑞垣」、他国から降臨した神を祀り、境内には男女が入り乱れている、という文章が書かれているのがあります。他国降臨の神体というのはまた後で触れますが、女人禁制の高野山と比べて男女が入り乱れる熊野は劣っているのだというのが高野山の主張です。熊野は山岳宗教の中心地でありながら、女性によって支えられたというとても特別な聖地でした。

熊野本宮大社まであと4kmほどのところに伏拝という場所があります。そこに和泉式部という平安時代の女流歌人にまつわるお話が伝わります。
本宮大社まであと少しという所まで来て和泉式部は生理になりました。当時、女性の生理は不浄なものとされました。

延喜式という平安時代の法令集がありますが、そこでは死や出産、流産、妊娠、生理などが不浄なものとして国家的に、法律で規定されていました。身内の人が死んだら30日の謹慎とか、家畜が死んだら5日間の謹慎とか、牛や馬、鷄など(六畜:ウマ・ウシ・ヒツジ・イヌ・イノコ・ニワトリ)の肉を食べたら3日間の謹慎。子供が生まれたら7日間の謹慎、家畜の出産は3日間の謹慎とか、生理中は謹慎とか。

だから和泉式部は泣く泣く本宮へのその日の参詣を諦めましたが、その日の夜の夢に熊野の神様が現われて、かまわないから来い、と夢の中で和泉式部に告げました。その夢のお告げを受けて和泉式部は翌日、本宮を無事にお参りできた。というお話が伝わります。

これもスゴい話で、生理を不浄とする中央の法律なんて熊野では関係ない、と、このお話は言っているんです。

似たような話が熊野の霊域の入り口とされた滝尻王子にもあって、身籠っていた女性が熊野詣に来て、奥州平泉の鎮守府将軍・藤原秀衡の奥さんの話ですが、急に滝尻王子で産気づいて出産した。で、参詣を諦めたのですが、その日の夜の夢に熊野の神様が現われて、赤子を滝尻の岩屋に置いてそのまま参詣を続けなさいと。そのお告げに従って、参詣することができて、滝尻に戻ってくると赤子も無事に育っていたというお話が伝わります。

これも出産を不浄とするという法律なんて熊野は気にしない。法律的には7日間の謹慎ですが、そんなのかまわないから来いということです。

女性を積極的に受け入れたこととともに、中央とは異なる価値観を持っていることを堂々と示していることも熊野のスゴさです。熊野は特別に神聖な土地で、そこには強力な浄化力がある。だから不浄に関する中央の法律を無視するようなことが可能だったのだと思います。

熊野は日本中の人たちがそこに行きたいと憧れた、日本一の霊験所だったので、日本の歴史や文化に大きな影響を与えました。
たとえば日本の古典文学を代表する『平家物語』は、その冒頭巻1で「そもそも平家がこれほど栄えたのは熊野権現(熊野の神様)のおかげであると噂された」と書かれています。『平家物語』は平家の栄華繁栄と没落を語る軍記物語ですが、熊野の神様の御利益を語る物語という面もあります。清盛の子、重盛は亡くなる前に熊野を詣で、孫の維盛は熊野を死に場所に選びました。

それから三大和歌集のひとつである新古今和歌集は、28回もの熊野詣を行った後鳥羽上皇の命で編さんされた歌集で、編さんを行った歌人たちも多くが熊野を詣でています。『新古今和歌集』に最も多く登場する地名が熊野で、19ヶ所登場します。2位がみちのくで16ヶ所。みちのく、東北の4県です。

新宿にも熊野神社がありますが、全国各地には現在おそらく5000社ほどの熊野神社があります。それも熊野が日本一の霊験所であった名残です。日本各地にある伝統芸能のようなものには熊野信仰が関係しているものがいくつもあります。

これは奥三河の花祭のHPから。国の重要無形民俗文化財である愛知県奥三河の花祭は熊野修験が成立に関わっているとされます。奥三河の花祭は柳田国男が「花祭を知らずに日本の伝統芸能は語れない」と言ったくらいのすごい伝統芸能ですが、その成立に熊野信仰が関わっている。

今年12月8日(土)に熊野本宮大社で奥三河の花祭の奉納が行われますので、興味のある方はぜひお越しください。花祭の保存会は今年度、高円宮殿下記念地域伝統芸能賞を受賞することが決まっていて、また熊野本宮大社は今年が御創建2050年という記念すべき年ですので、両者にとって喜ばしい年に花祭の奉納を実現することができて嬉しく思っています。

これは青森県のHPから。本州最北端の青森県の下北半島に伝わる、やはり国の重要無形民俗文化財の、下北の能舞も熊野修験が関わっているとされます。熊野は本州最南端の地ですが、本州最北端の地の文化に影響を与えるほど熊野の力は大きかったのです。

これは青森県東通村のHPから。下北の能舞のなかで演じられる権現舞。東北地方では獅子舞のことを権現舞といいます。熊野の神様のことを熊野権現と言いますが、獅子頭に熊野権現熊野の神様の分霊を迎え入れて、舞って悪魔払いをしたというのが始まりです。

それから盆踊り。盆踊りは、時宗という鎌倉時代に起こった新仏教、新しい仏教が行った踊念仏がその原形だといわれます。時宗の開祖は一遍上人。一遍上人は熊野本宮に籠って熊野権現の教えを夢で受けて、その結果、時宗という新しい宗派が作られることになりました。ですので、熊野本宮なしに時宗はないし、盆踊りもなかったということです。熊野が盆踊りの精神的なルーツになっています。

このようにかつては日本の宗教の中心地として栄えた熊野ですが、戦国時代頃から衰退していって、とどめを刺されたのが明治時代です。明治時代に国が行った神仏分離と神社合祀で熊野はぼろぼろになりました。

もともと熊野は神仏習合、神様と仏様を一体としてお祭りして栄えていった霊場です。熊野三山といって3つの大きな神社が熊野にはあります。熊野本宮大社、速玉大社、那智大社の三社。本宮の神様は阿弥陀如来でした。速玉は薬師如来。那智は千手観音。

熊野の神様を熊野権現といいますけれども、権現とは仮に現われたという意味。何が仮に現われたかというと仏が仮に神様の姿で現われた。熊野の神様は神仏一体でした。

神様と仏様が一体となった神社だったので、明治時代初期に行われた神様仏様をきっちり分けなさいという国の政策によって熊野はその価値を否定されました。

その後、明治時代末期には神社合祀という神社の統廃合が行われて、熊野地方を含む和歌山県と三重県ではおよそ90%の神社が破壊されました。もうこれで完全に熊野はぼろぼろにされました。

熊野は明治以降、価値のないものとして否定され、戦後間もなくには熊野本宮大社ですら水没する巨大ダム計画(小鹿ダム)までもが立てられました。当時としては世界最大級のダムで、高さ165m、ダム湖の面積は琵琶湖の4分の1。技術的に困難ということで実際に作られることはなく助かりましたが。そのような計画が立てられるほど、熊野は価値がない場所だとされました。

それがいま熊野三山や熊野古道は世界遺産です。なぜ世界遺産になれたのか。

紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産になれたのは4つの登録基準を満たしたからです。古い宗教儀式、宗教文化とか宗教建築の形式とか森林のある景観とかですが、とりわけ評価されたのが「神道と仏教のたぐいまれな融合」です。それは「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す」ものでした。

熊野権現垂迹縁起、平安時代末期のこの文書は、現存する文献上で最古の熊野の神様の御由緒の物語ですが、熊野の神様は中国、唐の天台山から来たと記されています。熊野の本地は室町時代の物語ですが、これだと熊野の神様はインドマガダ国から来たと語られます。神社の神様ですが、外国から来たとされました。

先ほどの高野山の文書で「外国降臨の神体」とありましたが、熊野の神様は外国から降臨した神様なのです。神社の神様だけれども、外国から来た。これも「神道と仏教のたぐいまれな融合」であり、「東アジアにおける宗教文化の交流と発展を示す」ものです。明治時代以降否定された神仏習合、神様と仏様を一体にしてお祭りする信仰の形が世界遺産登録に際しては高く評価されました。

世界遺産とは世界的に見て価値のあるものを人類共通の財産として守り、そして未来に伝えるというものです。ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)という国連の専門機関が行っている活動のひとつです。

ユネスコの目的は、教育、科学、文化を通じて世界の平和と安全に貢献すること。そして、そのユネスコの活動である世界遺産も、その意義はもちろん世界の平和と安全への貢献にあります。

ユネスコ憲章、ユネスコの基本方針を定めた文書の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という1文があります。

世界遺産はユネスコの事業で、その意義はもちろん世界の平和と安全への貢献にありますので、文化の交流が世界遺産登録の上でとても重要な評価基準となります。

「神道と仏教のたぐいまれな融合」。神さまと仏さまを一体にして祀る神仏習合という信仰形態は明治の神仏分離で破壊されましたが、その痕跡はまだ残されています。

ここ新宿には成願寺と十二所熊野神社がありますが、もともと成願寺は熊野神社の別当寺、熊野神社を管理するお寺で、神社とお寺は一体のものでした。成願寺と熊野神社の両方が残っているので、これも神仏習合の痕跡です。

そもそも熊野信仰を全国に広めたのが神職、神主さんではありません。平安時代には熊野山伏であったり、鎌倉室町頃には時宗のお坊さんであったり、戦国時代には熊野比丘尼という女性仏教者であったり。他の宗教の人たちが熊野信仰を広めてくれました。これも熊野のスゴいところです。

熊野古道もスゴいです。熊野古道にはいくつかのルートがありますが、高野山と熊野本宮を結ぶ道。吉野と熊野を結ぶ道。伊勢と熊野を結ぶ道。仏教真言密教の聖地と熊野。修験道の聖地と熊野。同じ神道とは言ってもまるで違う伊勢と熊野。異なる宗教の聖地を参詣の道、もしくは修行の道が結んでいます。同じキリスト教の中でもプロテスタントの教会とカトリックの聖地を結ぶ巡礼の道というのもあり得ないです。世界的にはあり得ないようなことが日本では起こって、それを象徴するような場所が熊野古道です。

それから熊野信仰の土台の部分に自然崇拝があることもとても魅力的です。熊野では現在でも滝や岩や島を祀っている神社があります。社殿のない神社もあります。自然崇拝の名残が今でも熊野では見られます。

無社殿神社。那智の滝を御神体とする飛瀧神社とか、古座川の川中に浮かぶ島を御神体とする河内神社とか。私は無社殿神社がとても好きです。

飛瀧神社は古くは飛瀧権現と呼ばれていました。古い神社名は明治の神仏分離で失われましたが、飛瀧権現て滝が神様で仏様だということを現わしています。自然崇拝と神仏習合でここの神社はできているんだよと。

明治末期の神社合祀で無社殿神社のほとんどは潰されてしまいましたが、まだわずかながらも残されたものがあり、飛瀧神社や河内神社はその代表です。

熊野の魅力を情報発信しながら、私が何を目指しているかというと、熊野再興。いったんは完全に廃れた熊野を再び興すということです。

熊野はかつて日本にとって特別な場所でした。しかしながらいったん完全に衰退したので、今はそれが忘れられているというのが現状です。ですので、熊野を再び日本にとって特別な場所にしたい、そしてさらに熊野を世界的な聖地にしたいというのが私の夢です。

熊野は世界遺産です。
熊野三山や熊野古道が世界遺産となれたのは、日本の未来や世界の未来に熊野が必要なんだということだと思います。日本の未来、世界の未来に対して熊野が何らかの役割を果たせということなのだと思います。世界の平和と安全になんらかの貢献をせよ、ということだと思います。

熊野信仰の土台の部分には自然崇拝があります。世界的な環境問題のことを考えたら、自然への敬意、人間以外のものへの尊敬の気持ちというものが全人類的に必要とされていると思います。

それから熊野信仰というのは神道と仏教という異なる宗教を共存させてきました。世界各地の紛争やテロなどの根底にはやはり宗教的な対立があります。宗教的な対立が争いを生む、そうした世界の情勢のなかで、熊野では日本では異なる宗教を共生させてきたんだ、そういう歴史があるんだと示すことは、ささやかなことでしかないかもしれませんが、世界にとって意義のあることだと思います。

異なる宗教の共生、異なる文化の共生ということも人類の未来に必要とされていることだと思います。

熊野信仰の土台には自然崇拝があり、その上に神仏習合があります。世界が地球規模のさまざまな困難な課題に直面するなかで、いま世界に求められているのはそのようなものなのではないか、と私は考えてます。自然への敬意を根底に置いた、宗教の共生、文化の共生。これこそ熊野が世界に発信すべきものなのかなと思います。

人類の未来に必要であろうと思われることが熊野にある。熊野を、世界的な観光地、世界的な聖地にしていくことは世界の再生にもつながることだと、私は信じています。

日本の歴史が動くとき熊野が動く。熊野が動くとき日本が動く。そのようにいわれます。

初代天皇である神武天皇が大和に攻め上がるときヤタガラスが神武天皇を熊野から大和に導きました。源平の合戦においては熊野水軍が平家を壇ノ浦に沈めました。承久の乱、鎌倉時代末期の熊野水軍による反幕府一斉蜂起、南北朝の動乱。

日本の歴史が動くとき、その背後で熊野がうごめいている。

私には小さなことしか出来ませんけれども、私のちっぽけな活動が小さな小さなきっかけのひとつになって、熊野が動き、日本が動き、世界が動く、そのようなことになったら楽しいなと思って、日々の活動を行っています。

私の話は以上です。ありがとうございました。

(てつ)

2018.7.7 UP
2021.5.11 更新

参考文献