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熊野山観音院玉泉寺:東京都狛江市東和泉3丁目10-23

柑橘母さんからご投稿いただきました。ありがとうございます。柑橘母さんのブログ「瀬音の写真集」はこちら

鬼門除に熊野権現をお祀りする天台宗の寺院

熊野山観音院玉泉寺本堂

多摩川三十三観音霊場 第十九番 天台宗熊野山観音院玉泉寺

こちらは熊野神社ではありませんが、玉泉寺様の公式サイトから寺鬼門除けに熊野権現をお祀りしているとの情報を得て、参拝させて頂きました。

玉泉寺は、山門、本堂、観音堂、帝釈堂、庫裡、照隅殿で構成されており、境内には西国札所観音写の石仏群、六地蔵、菩提樹(狛江市天然記念物指定)、江戸六阿弥陀・西国三十三所観音の石碑がありました。

熊野山観音院玉泉寺山門
山門

熊野山観音院玉泉寺扁額
扁額

熊野山観音院玉泉寺帝釈天
帝釈堂

熊野山観音院玉泉寺観音堂
観音堂

熊野山観音院玉泉寺水受け
雨樋の水受けの紋

沿革

(玉泉寺のリーフレットより)

 当山開闢については、文献・資料・石像物等々、現存するものからは、何一つこれを証するものはない。古老の云うところの人皇第三十四代、舒明天皇六(六四三)甲午年十月、浄慶法印の開設にて、薬師・文殊の両像を安置し、大輪寺と称していたとする証となる文献等は全く今のところは見当たらない。ただ、今日現存する五輪塔に、康安元年(一三六一)と明瞭に刻されているものがあり、現在、中興開山尊祐法印による開創が永正元年十月一七日とあるが、それより遡ること百四十三年と云うこととなり、中興以前にこの寺が存在していたのではないかと想像し得る訳である。

 又、これは昭和三十一年のことであるが、多摩川対岸の砂利採掘現場において、直径2メートルに及ぶ欅の大木の根の部分が掘出された。これは恐らく、多摩川の氾濫により倒れ、洪水による砂利の下に埋没されていたものと想像される。又、その位置が、大輪寺と称された玉泉寺の前身があったとされる、対岸の松林の近くであったことから、その境内にあった欅ではないかと思われるのである。

 尚、これも言伝えの域を脱し得ないが、北条時頼が、文応年間諸国行脚の折り、荒廃した堂宇を再造営したが、戦乱の世、兵火を逃れ得ても、多摩川の度重なる洪水により被害甚大なるものがあったといわれている。

 ここで中興開山尊祐法印、その敷地を左岸に求めて、堂宇を再建し、十一面観音像を併安し、さらに鬼門除として熊野権現を祀り、熊野山観音院玉泉寺と改称した。これ時、永正元年十月十七日(西暦一五〇四)と過去帳(現存第2冊)に書込みがある。記録としては、これが最古のものである。

 下って、天文一九(一五五〇)庚戌年、貞亨三(一六八六)が丙寅年、二回の多摩川氾濫により、更に東南に移動して堂宇を再建した。この頃に、地頭、石谷七之助清明より祈祷料として、田畑の持高の内、弐石余の諸役・年貢免除の書状を受く。(元禄六年 − 一六九三)その後、又々洪水に見舞われ、一四世潅道・一五世潅純、現在地に堂宇を再建し、(明和元年 − 一七六四 棟上・安永五年 − 一七七六 落成)今日に至る。

 中略

昭和六十一年発行された狛江市史に、市内に存する各種の資料から、編纂委員の方々の研究により、この寺が、鎌倉街道の渡し船のほど近くに堂宇を建立したのではなかろうかと述べられている。

第十五世潅純、荒地を開墾したが度重なる水害を被り、明治維新に至った。二十一世廣観、二十二世義範の代に旧に復したが、明治四十一年関東一円を襲った大水害に見舞われ、多くの田地が荒廃に帰した。

第二十三世堯弁(明治三十六年 ~ 昭和十二年)在任中、大正末期、寺領の中央を小田急電鉄が敷設され、その際に堂宇の改修を手掛けられて、平成の改修までその姿が存していた次第である。

 中略

 昭和期末、都市計画の一環として、小田急電鉄の輸送力増強の計画のための連続立体化と側道の敷設の工事が始まり、その用地として再度寺領が公共用地として、鉄道建設公団並びに東京都に収用されることとなった。これを機に平成二年竣工した照隅殿に続き、観音堂・帝釈堂・山門等の改修と、敷石の改修、最後には庫裡・渡廊下の改築をほどこし、寺容を整備することができたのである。

尚、本尊、薬師如来は秘仏にて、寅年にご開帳する。

十一面観世音像(行基作)
阿弥陀尊像(伝恵心作)

当日は運良く、ご住職の奥様(前ご住職のお嬢様)からお話を伺うことができました。
以下、箇条書きにて記します。

・大輪寺として存在したのは、地元の人が五本松と呼ぶ地の対岸であったと思われる。

・開山当時に安置されていた薬師、文殊の両像については、洪水のため現在は薬師如来像しか残されていない。

・扁額の文字は天台宗座主山田恵締様のものである。

・玉泉寺の紋は、丸の中に三つ鱗(みつうろこ)、寺再造営の伝承に残る北条氏の紋は三つ鱗なので関係があるのではないか。

・熊野権現を鬼門除けとしてお祀りしていたとされているが、それも洪水のため勧請の由来など詳細は不明となり、境内にそれを証明するものは残されていない。

・帝釈堂とされているお堂の祭神は定かではなく、中には木製の小さな祠が二つ安置されている。一つは、神社のような造りで祭神は不明。もう一つは、水神を祀ると思われる。

・帝釈堂とされているお堂は、「おしゃもじ様」として信仰を集めている。

・「おしゃもじ様」は、百日咳や喘息を治すと信じられている。
 1. 願を掛けるときに、お堂に奉納されている「しゃもじ」を家に持ち帰り、それでご飯をよそって食べる。
 2. 病気が治癒したときに、お礼参りとして、持ち帰った「しゃもじ」と新しい「しゃもじ」をお堂に戻し奉納。

・「おしゃもじ様」の信仰は、昔に比べると少なくなったが、今も願掛けをする方がいる。

・喘息と水神信仰。

・熊野山とされているが一時、能の漢字を用いていたことがある。熊の、つくりの「れっか」の部分が火を表すことから火災を恐れて縁起が悪いとした。現在は、熊に戻している。 熊野 → 能野 → 熊野

水防倉庫
小田急線高架下の狛江市水防倉庫

多摩川河川敷
多摩川河川敷(対岸は神奈川県川崎市多摩区)

沿革の中にもあるように、奥様お話の中でも繰り返し、多摩川の洪水のことが語られました。
このお寺は幾たびもの自然災害の脅威や電車敷設などの都市開発の危機にさらされながらも、
水辺を離れることなく現在に至っています。
また、熊を一時期、能として火災から免れようとしたことにも、 昔の人の思いを感じました。

「おしゃもじ様」の信仰については、旧坂東家住宅 見沼くらしっく館(さいたま市)を見学したときにも説明を頂きました。
そちらは、百日咳を患ったとき、近くの「おしゃもじ様」という神様から「しゃもじ」を頂き、それで喉をさすって治癒後には新しい「しゃもじ」を奉納。古いものは戸口に飾り、外から病が入ってこないようにするそうです。(風邪など咳の出る病気や喉の病気にご利益とのこと)

熊野権現の詳細は分かりませんでしたが、TATSUさんがご投稿されているように、芝増上寺の境内社として、鬼門除けに熊野神社が祀られていることも興味が湧きますし、ネットで調べたところ熊野本宮大社では鬼門札を授けて頂けるようです。

許可を得て境内の写真を撮らせて頂いているとき、敷地内の霊園に花を携えお参りにいらした女性を見かけました。
和泉多摩川駅からもほど近く、商店街と隣接するお寺は、人々に愛され親しまれている街中のお寺の印象でした。

奥様に取り次いでくださった、庭掃除中の女性職員の方、突然の訪問にもかかわらず丁寧に応対してくださった奥様、貴重なお話を伺わせて頂き本当にありがとうございました。

 

多摩川三十三観音霊場 第十九番 天台宗熊野山観音院玉泉寺

 御詠歌 うれしくも こけのたもとに むすぶかな たまのいずみの ふかきめぐみを

(柑橘母さん)

No.1696

2013.3.16 UP
2023.10.2 更新

参考文献



東京都狛江市東和泉

読み方:とうきょうと こまえし ひがしいずみ

郵便番号:〒101-0014

狛江市HP

狛江市 - Wikipedia
狛江市(こまえし)は、東京都の多摩地域東部に位置する市。東京都区部に接し、ベッドタウン的な性格が濃いが、多摩川をはじめとする自然が多く残り、将来市像として「水と緑のまち狛江」を掲げる。日本で2番目に面積が小さい市として知られる。