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小栗判官

熊野の聖なるイメージを人々に伝える死と再生の物語、小栗判官

 1 深泥ケ池の大蛇 2 照手姫 3 人喰い馬 4 小栗の最期
 5 水の女 6 餓鬼阿弥 7 小栗復活


 人の多く集まる社寺の前など街頭で、庶民相手に仏の教えを広めるために語られた物語、説経。

 そもそも説経とは読んで字のごとく経を説くこと。仏典を読み説くこと。
 仏の教えをいかに一般の人々に伝えるか。教養のない庶民にお経を読んで聞かせても、それほど面白いものではありません。そこで庶民に対しては仏の教えを物語に仮託して伝えるという方法を取りました。『今昔物語集』などに収められている説話のなかには、おそらく平安時代に僧侶が説経したものが多く含まれているものと思われます。

 室町時代に入ると、「小栗判官(おぐりはんがん)」「刈萱(かるかや)」「山椒太夫(さんしょうだゆう)」「しんとく丸」「愛護若(あたごわか)」のいわゆる五説経があらわれます。そのなかでも他を寄せつけないスケールの大きさを持つのが『小栗判官』です。

 説経『小栗判官』の成立には、物語上に藤沢の上人が登場することから時宗(時衆)の念仏聖の関与があることは確実と思われます。神奈川県藤沢市には時宗の総本山・清浄光寺(しょうじょうこうじ)があります。清浄光寺は別名 遊行寺(ゆぎょうじ)。

 鎌倉時代に興り、日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教「時衆(じしゅう。のちに時宗)」。その開祖・一遍上人(1239~89)は「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と自ら述べています。
 南北朝から室町時代にかけて、時衆の念仏聖たちは、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広め、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態を生み出しました。

 念仏聖たちは、『小栗判官』などの説経を通して、当時、前世の悪行の結果かかる病だとされていたらい病をも本復させる強力な浄化力を熊野がもつことを伝え、中世の日本人の心に熊野の聖なるイメージを浸透させていきました。

 『小栗判官』は庶民の間で人気を博し、熊野への街道が小栗街道と呼ばれるようになりました。『小栗判官』は『平家物語』と並んで熊野信仰にとって重要な物語です。

小栗判官が伝える今に伝えるメッセージ

 『小栗判官』は、常陸国の武士・小栗判官が相模国(現在の神奈川県)で殺されるも閻魔大王の計らいで亡骸のような姿で地上に戻されて熊野まで運ばれ、熊野・湯の峰の湯で回復するという物語です。

 小栗判官の物語は現在でも舞台で演じられますが、それはその物語が今の世にも必要とされているからだと思います。

 地上に戻された小栗判官は餓鬼阿弥と呼ばれ、その姿は当時「餓鬼病み」と言われたハンセン病の患者がモデルだと考えられます。

 ハンセン病患者は国の強制隔離政策によって明治末期1907年(明治40年)から平成初期1996年(平成8年)までの90年にわたって差別され続けてきました。国が差別を助長し、患者だけでなくその家族も差別に苦しめられました。

 ハンセン病患者への差別の責任を国が認めたのが平成の中頃2001年(平成13年)でした。そして患者だけでなくその家族への差別の責任を国が認めたのが一昨年2019年(令和元年)でした。

 明治以降平成までのハンセン病患者とその家族への差別を助長し続けてきた近代日本の歴史を知ると、小栗判官の物語は今も重要性を失っていないように思います。

 差別をするな。これは小栗判官の物語が今に伝えるメッセージのひとつです。

 弱き人は助けなければならない。これもまた『小栗判官』が伝えるメッセージのひとつです。

 小栗判官は目が見えない、耳も聞こえない、口もきけない、歩けもしない体で地上に戻されました。そのような体の小栗が熊野まで来ることができたのは熊野街道沿いの人々や熊野を詣でる人々の助けがあったからです。

 弱き人は助けなければならないという思いが途切れることなく相模国から熊野まで繋がったから小栗は熊野まで来れたのです。

 差別をするな。弱き人は助けなければならない。これらのシンプルなメッセージを発する物語は格差の拡大が進む現在、より重要度を増しているのではないか、と思います。

 

 

折口信夫の小栗判官論
1.『餓鬼阿弥蘇生譚』
2.『餓鬼阿弥蘇生譚の二』
3.『小栗判官論の計画 餓鬼阿弥蘇生譚終篇』

(てつ)

2001.3.5 UP
2003.11.25 更新
2010.7.23 更新
2021.11.21 更新

参考文献