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八幡神社(はちまんじんじゃ)

和歌山県田辺市長野988番の2 長瀬村:紀伊続風土記(現代語訳)

那須与一創建、那須与一の八幡さん

八幡神社鳥居

 和歌山県田辺市長野の八幡神社。この八幡神社は、「那須八幡」とも「那須与一の八幡さん」ともいわれる那須与一宗高(なす の よいち むねたか)創建と伝わる神社。

 那須与一宗高が鎌倉から御神体を携えてきて祀り、境内に梛(ナギ)の苗を数本植えて創建したのだそうです。

 もとは長野沢の口の川岸にありましたが、明治22年(1889年)の水害で流出。避難させてあった御神体を現在地に移して神社を再建しました。境内には水難記念碑も建てられています。

 また再建時に植えられたものでしょうか。現在の境内にも梛の木が数本見られます。

八幡神社境内

 那須与一が創建した神社ということで、境内社に宗高神社もあり、毎年正月には弓矢による射的の行事が行なわれていましたが、大正の初期に途絶えました。

 八幡神社ではもとは8月15日に例祭がおこなわれましたが、現在では11月3日に豊作を祝う住吉踊(県の無形民俗文化財)の奉納が行なわれます。左手に笹、右手に扇を持って円陣になって踊り、古くは笹踊りとも呼ばれました。

 那須与一、八島の戦いのあと

 那須与一宗高は源平の合戦において源氏方につき義経に従軍した平安時代末期の武将。
 『平家物語』に記される、屋島の戦い(1185年)での平家方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすエピソードが有名です。以下、『平家物語』巻第十一「那須与一」より。

……与一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現・宇都の宮・那須の温泉(ゆぜん)大明神、願はくはあの扇の真中射させて給ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度、本国へ帰さんと思し召さば、この矢はずさせ給うな」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなりたりけれ。
与一鏑を取つてつがひ、よつ引いてひやうと放つ。
小兵といふ條ぢ十二束三伏、弓は強し、浦響くほどに長鳴(ながなり)して、あやまたず扇の要際一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。
鏑は海に入りければ扇は空へぞあがりける。
春風に一揉二揉もまれて、海へさつとぞ散つたりける。…… 

 このとき与一の年齢は20歳ほど。「寛政重修諸家譜」では文治5年(1189年)8月8日死去、「続群書類従」では建久元年(1190年)10月死去とあり、屋島の戦いから4~5年後に与一は若くして亡くなっています。

 しかし、この死去は、与一が義経に従っていたがために、頼朝による粛清を免れるための偽装で、実際は生きており、後に出家し、源平合戦の死者を弔う旅を30年余り続けたとの伝承もあります。

 那須与一宗高の創建と伝わる寺社はいくつか存在し、与一の墓所も各地にあります。田辺市長野にも不動寺の境内に那須与一宗高の墓碑だと伝わる石塔があります。

(てつ)

2009.8.11 UP
2020.7.4 更新

参考文献

八幡神社へ

アクセス:JR紀伊田辺駅から車で約20分
駐車場:駐車場なし

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