■ 創作童話

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★ 鯨尺物語  太地町 沖の親子鯨のお話  (正和 作)


初めに:
 このお話は、私が最近知り合った本宮町に在住の正和さんという方の創作童話です。
 先日、正和さんのお宅に伺ったときに、ワープロで印字して小さな冊子にしたこのお話を朗読してくださいました。それを聞いて、私は感動し、もっと大勢の人にこのお話を読んでもらいたいと思い、正和さんの許可を得て、こちらに転載させていただくこととなりました。

 このお話は正和さんの創作です。このような話が和歌山県太地町(たいじちょう)に伝わっているということではありませんので、その点はご注意ください。

 それでは、はじまり、はじまり〜。  (てつ)


鯨尺物語  太地町 沖の親子鯨のお話       (正和)

 

昔、昔、熊野灘にのぞむ南紀州の太地の町の沖に、鯨の親娘が住んでいました。
お母さん鯨は大変やさしい大きな鯨でした。娘鯨は素直で利口でとても可愛い女の子でした。
親娘の鯨は太地の沖から、那智勝浦、新宮の沖へ、又、時々、鵜殿村や木本(現在の熊野市)鬼ケ城の沖まで熊野灘を黒潮に乗って遊びに行くことも有りました。

 

そしてそれはある秋の日の夕方のことでした。
いつものように沖から太地の町を眺めていると町の方が明るく賑やかなので、親娘は浜の方へ近寄って見ると綺麗に着飾った人々が楽しそうに唄ったり踊ったりしていました。
賑やかなはずです。今日は太地の町のお祭りだったのです。

 

浜からこのようすを見ていましたが、そのうち親娘は、そっと太地の町の中に行ってみる事にしました。
綺麗な花柄の着物を着てお母さんに手を引かれて、お店で玩具や美味しそうな御菓子を買ってもらっている子供たちや、綺麗な振袖を着て御友達と楽しそうにお話をしている女の子を見ているうちに、鯨の娘はその綺麗な着物を着てみたくなり欲しくって、欲しくってどうしても我慢ができなくなってしまいました。

 

娘鯨「ねえ、お母さん、私もあんな着物が欲しいの。だから、作って頂戴
お母さん鯨は、大層困ってしまいました。
母鯨「あれはね人間の娘さんが着るものだから、私達鯨には着ることができないのですよ
お母さん鯨は一生懸命に娘に言い聞かせましたが、それでも娘鯨は、あの太地の町の女の子が着ていた綺麗な着物が欲しくてたまりません。

 

ある日、とうとう一人で町に行き一軒の呉服屋さんのお店をたずねました。
太地の町の人達はみんなやさしい人ばかりですが、中でもこのお店のお内儀さんはとても親切でそれはそれは気立ての良い方でした。
鯨娘「御免下さい
お内儀「いらっしゃいませ
応待に出た店のお内儀さんが挨拶をしながら見ると、鯨の娘さんは言い難そうに小声で、
鯨娘「あの……着物を作って欲しいのだけど………
お内儀「有難う御座います。どのような、どちら様のお召し物でしょうか
鯨娘「実は私のです。太地の町の娘さん達がお祭りの時に着ているような綺麗な着物が欲しいのです

それを聞いてお内儀さんは大層困ってしまいました。
今でも鯨に着せる着物は作ったことが有りません。到底出来ないことなのです。
それでも必死になってすがる娘鯨を見ていると、無下に断わることもできず、
お内儀「あの…有難い御注文ですが、実は私共の店には、貴方様の様な大柄なお客様をお計りできる〔物差し〕が御座いませんので
と、苦し紛れにお内儀さんは、長い〔物差し〕がないからと言って断わりました。

それを聞くと、娘鯨は悲しそうにじっとしばらく俯いたままでしたが、やがて小さな声で、
娘鯨「お邪魔を致しました
と言って店を立ち去りました。

 

それから鯨の娘は、夕方になると、太地の浜にきては黙って溜息をつきながら太地の町のあかりを眺める日が続き、そのうち、なにも食べないようになりました。
お母さん鯨は、大層心配をしていろいろと手を尽くしましたが、娘鯨は、ただ黙って溜息をつくばかり、やせ細ってとうとう亡くなってしまいました。

 

鯨の死んだ、その後には、一本の長い竹の〔物差し〕が浮いていました。
目盛りは町で使っている〔物差し〕よりずっと長いものでした。

 

お母さん鯨は、泣く泣くそれを持って太地の町に呉服屋さんに行き、お内儀さんに娘が亡くなったことを話して、生前世話になったお礼を言いました。
お内儀さんは、「可哀相に、私が長い物差しがないからと言ったばかりに、長い〔物差し〕があれば綺麗な着物を作ってもらえると思ったのでしょう
と、その〔物差し〕を受け取って、溢れ出る涙をぬぐいました。

 

そして、
これからは娘さんの供養のために着物を作る時にはこの長い〔物差し〕を使って着物を縫うことにします……」と言って、その呉服屋のお店では、この〔物差し〕を鯨尺(クジラザシ)と名づけて使うことにしました。
そして、心の優しい太地の人々は娘鯨を懇ろに弔って、それから毎年、鯨祭りを行なうようになりました。

 

鯨のお母さんは、
太地の皆さんには大変お世話になりました。が、なにもお礼をすることが出来ません。せめて私が亡くなったならこの身体を使って下さい。肉も油も骨まで、みんな皆さんのために利用して頂けます」と、真心込めて申しました。
そして、静かに立ち去りました。

 

やがて、太地の町の人達も鯨の残した言葉の通り捕鯨をするようになり、又、太地の町で使い始めた〔鯨尺〕はやがて京都・大阪はもとより全国にひろがり、着物を作る時には〔曲尺(かねざし)〕を使わずに〔鯨尺〕を使って布を裁ち着物を縫うようになったと言う。

 

私達が、あの食糧のない頃から長い間美味しく食べさせて頂いた鯨のお肉も、そして、いつも私達の身体を暖かく優しく包んでくれる着物を作った〔物差し〕もみんなこの優しく悲しい物語が始まりだということです。

おわり

(注)これはフィクションで実際の出来事では有りません。作者(正和

 


鯨尺について

鯨尺(くじらざし)は、「くじらじゃく」とも言います。
江戸時代から主に布地の長さを測るのに使われていた尺です。
1891年(明治24年)に、66分の25メートル(約37.879cm)をもって一尺と定めました。
鯨尺の1尺は、建築などで使われる曲尺(かねじやく:33分の10メートル〔約30.3cm〕)で1尺2寸5分。鯨尺の方が1.25倍大きいです。

「鯨尺」という名前は、鯨のひげから「物差し」を作っていたのが由来とされます。

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