■ 熊野の歌

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◆ 建礼門院右京大夫


 建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ。生没年未詳)は平安末期〜鎌倉初期の女流歌人。平清盛の二女、高倉天皇の中宮、建礼門院に仕え、平家没落後は仏門に帰依しました。
 
平重盛の次男、平資盛(すけもり)に愛され、家集『建礼門院右京大夫集』には資盛との恋の歌が多くおさめられています。

 『建礼門院右京大夫集』より3首。

1.資盛との恋の歌1首。

ちゝおとどの御ともに、くまのへまい(ゐ)るときゝしを、
かへりてもしばしを(お)となければ、

忘るとはきくともいかが 三熊野の浦のはまゆふうらみかさねん(158)

とおもふも、いと人わろし。

 父の内大臣重盛の御共であなた平資盛が熊野へ参詣すると聞いたが、帰ってきてもしばらく音沙汰がないので、

 私のことなど忘れてしまったと聞いても、どうしてみ熊野の浦の浜木綿の葉のように恨みを重ねたりしようかと思うけれども、ひどく外聞が悪い。

 「忘るなよ忘るときかばみ熊野の浦の浜木綿うらみかさねむ(後拾遺雑一)」がもと歌。もとの歌では「忘れたと聞いたら恨む」といっているけれども建礼門院右京大夫は「忘れられても恨まない」といっています。けなげですね。

2〜3.熊野の海に身を投げた維盛(平重盛の嫡男。資盛の兄)の死をいたんだ歌2首。

又、維盛の三位中将、くまのにて身をなげてとて、人のいひあはれがりし。いづれも、いまのちをみきくもにも、げにすぐれたりしなどおもひいでらるゝあたりなれど、きはことにありがたかりしかたちょうゐ、まことにむかし今みる中に、ためしもなかりしぞかし。さればおりおりには、めでぬ人やはありし。法住寺殿の御賀に、せいかいはまひてのおりなどは、光源氏のためしもおもひいでらるゝなどこそ、人々いひしか。花のにほひもげにけをされぬべくなど、きこえしぞかし。そのおもかげはさることにて、みなれしあはれ、いづれかといひながらなをことにおぼゆ。「をなじこととおもへ」と、おりおりはいはれしを、「さこそ」といらへしかば、「されどさやはある」といはれし事など、かずかずかなしともいふばかりなし。

春の花の色によそへしおもかげのむなしき波のしたにくちゐる(214)

かなしくもかゝるうきめをみ熊野の浦わの波に身をしずめける(215)

 また、「維盛の三位中将が熊野の海で身を投げた」と言って、人はあわれんだ。悲運にあった平家の人々はいずれも、今の世に見聞きするなかでもほんとうにすぐれていたなどと思い出されるけれども、維盛の際立って類がないほどの容姿は、ほんとうに昔から今までを見るなかで先例もなかったほどだ。だから折々に愛でない人があっただろうか。

 法住寺で行われた後白河法皇五十の御賀で青海波(せいがいは。舞楽の名)を舞った折りなどは、「光源氏の先例(『源氏物語』紅葉賀で光源氏が御賀に青海波を舞った)も思い出される」などと人々は言った。
 「維盛の美しさに花の匂いもほんとうに圧倒されたにちがいない(『源氏物語』花宴で光源氏の美しさを「花の匂ひもけおされて、なかなかことさましになむ」とある)」などと人々が言うのが聞こえたのだ。

 そんな特別な折々の面影はいうまでもないこととして、いつも親しく接して受ける感動は、どれかといいながらまたとくに思い出される。

維盛が「弟の資盛と同じことに思いなさい」と折々言われたのを、「そのように思っています」と社交的に答えたところ、「そうはいうけれども、本当なのだろうか」と言われたことなど、数々悲しいことも何ともいいようがない。

 桜梅少将などとその美しさを春の花の色になぞらえられていた面影は波の下に空しく朽ちてしまったことだ。

 悲しくもこのような憂き目を見て、み熊野の海岸の波に身を沈めたのだなあ。

 維盛は熊野三山を巡った後、那智の浜から船出し入水しました。維盛27歳という若さでした。

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(てつ)

2005.6.17 UP

 ◆ 参考文献

日本古典文学大系『平安鎌倉私家集』岩波書店

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