■ 熊野の歌

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◆ 長うた狂歌「木挽長歌」


 新宮市出身の文学者・佐藤春夫(1892〜1964)の著作に「熊野路」という随筆があります。
 その随筆で、佐藤春夫は、曾祖父の懸泉堂椿山(佐藤百樹。椿山と号した。懸泉堂は佐藤百樹が起こした私塾の名のようです。読み方は「けんせんどう」でしょうか?)が幕末明治維新の直前に作った長うた狂歌「木挽長歌」を紹介し、歌の注解をしながら、自身の故郷である熊野の風土を愛情込めて紹介しています。

 長歌のため読みにくいかもしれませんが、おつきあいくださいませ。なお「※」の部分は、「く」を縦に伸ばしたような、二文字以上の文字列の繰り返しを表す繰り返し符号が入ります。

木の国の 熊野の人は かし粉くて このみ※の 山ずま居 今はむかしとなりはひも うらやす※と浦々は 魚(な)つり あみひき 勇魚(いさな)とり あこととのふる あまが子も 声いさましくあしびきの 山は炭やき 松ゑんのかまど賑ふそま人は 福がめぐりて きのえねの よき年がらと打集(つど)ひ 噂山々 さき山は 斧をかたげて 山入し 大(おほ)木を 伏せてきりさばき 五けん十間 ひく板は 挽賃けんに三百文(もん) きりさべともに八九ふん 束(たば)ね三ぷん 浦べでは こつぱ一把(は)が二十四もん もちも平(ひら)だもねがあがり おあしお金はつかみどり こんな時せつは あらがねの 土ほぜりより玉くしげ 二つどりなら 山かせぎ 木挽々々とひきつれて 二百目米を 日に壱升 杭のかしらに つむ雪と もりくらべたら わつぱ飯(めし) 七日七日の山まつり 百に身鯨六十日 貫八百の磯魚も 歯ぼしたゝぬと 言ひもせず 三百五十の酒を酌み 一寸先はやみくもと かせぐおかげで このやうな栄耀(ええう)するこそ 楽しけれ しかはあれども 此ごろは 京の伊右衛門の前挽(まえびき)も 三分のあたひ 二両二分 やすりかすがひ 二朱づゝと 二百五十の 上村の 煙草のけぶり 吹きちらし かたるおやぢを けぶたがる 若い同志は 馬が合ひ 近所隣へ かけかまひ 内証ばなしも きさんじに 声高々と 夜もすがら 天狗の鼻をもてあまし ひるは終日(ひねもす)ひきくらし 骨を粉にした もうけ金 腰にまとひて 我宿へ かへりきのとの 丑の春 はや春風が ふくりんの はやりの帯を しめのうち 千とせを契る 松の門 お竹お梅が花の香の 金もて来いの 恋ひ風に まき散らしたる坊が灰 元のはだかで 百貫の男一匹 千匹の鼻かけ猿が笑ふとも もうけた銭をいたづらに つかはざるのがまさるぢやと そまのかしらが 独りごと むかしの人は樫粉(かしこ)くて あはれこのみは あさもよし 木をくうて 世を渡るむしかも

返歌

 過ぎたるはなほ及ばざるがごとしと言はん杣木挽 金もうけの過ぎたるはなほ

 ざっと訳しますと、

紀伊の国の熊野の人は賢く樫の粉を食べて、木の実を好む山住まいであったが、それも今となっては昔のこととなり、生活も豊かになってきた。
浦々では魚を釣り、網を曳き、鯨を取り、網を引く人々に号令する漁者も声勇ましく、網を引く人々も力を込めて足を引く。

山は炭焼きや松煙のかまどが賑わう好況が巡りあわせてきて、木の値がよい甲子(きのえね。ここでは1864年)のよい年がらと杣人が打ち集う。
さまざまな噂を喋り交わして先山
(山稼ぎの先達で棟梁)は斧をかたげて山に入る。
先山が大木を伐り倒して、五間十間と木挽きが板に挽く。挽き賃は板一間につき三百文である。

「きり(伐り倒した木を一間の丈に切る作業)」と「さべ(丸太の周囲を斧ではつって四角にし柱状にする作業)」はともに賃金は八〜九分。たばね(一間の板を一束として束ねる作業)の賃金は三分。木端一把が二十四文。
持ち
(板を川船場まで運こぶ仕事)も平田(船で材木を問屋場まで運ぶ仕事。船の名を平田船といった)も賃金が上がり、お金はつかみどりというこんな時節は農業より二倍美味しい山稼ぎ。

木挽き木挽きとみなひきつれて山に入り、一石銀二百匁(もんめ。1匁=約3.75g )の高い米を日に一升。
切り株の上に積もる雪のように盛り上げたわっぱ飯。
七日七日ごとに行われる山祭り。百文で鯨肉六十匁。貫
(1貫=約3.75kg) 八百文の磯魚も手が届かぬと言いもせず、三百五十の酒の肴とし、一寸先は闇だが、闇雲に働き稼ぐおかげでこのような贅沢ができるのも楽しいことだ。

「しかしながら、この頃は京の伊右衛門の前挽(木挽き専用の大鋸)も三分のものの値は二両二分に値上がりした。ヤスリ(鋸の目立てに使う)、かすがい(挽く木材を固定するのに使う)はおのおの二朱になった」と、二百五十文の上村(熊野川町笹尾(ささび)が煙草の産地で、そこの上村という煙草が珍重された)の煙草の煙を吹き散らし、語るおやじをけむたがり、若い者同士は馬が合い、近所隣へ行って、内証話を気兼ねしながらも、声高々と終夜おしゃべりをする。

天狗の鼻を持て余し、昼は終日木挽きして過ごし、骨を粉にして儲けたお金を腰にまとって我が家へ帰ると、里は乙丑(きのとうし。ここでは1865年)のお正月気分に早くも春風が吹き、里の人々は流行のふくりんの帯を締めている。

千歳を契る松飾りの門で、お竹お梅が花の香を匂わせて、金を持ってこいとの恋の風を吹かすので、その恋の風に子供が灰をまき散らすように、骨を粉にして稼いだお金をばらまいてしまう。
元の裸で百貫の男一匹、千匹の鼻を欠けた猿が鼻のある一匹を笑うとも、儲けた銭を無駄に使わないのが勝るのだ、と杣の頭が一人言と。

昔の人は賢くて、自分のことを木を食べて世を渡る虫だと観じていた。

返歌

 過ぎたるはなおおよばざるがごとしと言う杣木挽き。金の儲けの過ぎたるはなお。

 たいへん大まかに要約すると、昔の熊野の人は木の実を採って食べる生活をしていたが、今では山の木を伐って稼いだお金で食料や何やらを購入して消費する生活をするようになったというような内容です。

 この歌は佐藤春夫の曾祖父により幕末明治維新直前(大政奉還がなり、王政復古の大号令が発されたのが1867年のこと)に作られましたが、そのわずか数十年前に国学者で紀州藩の藩士であった加納諸平(かのうもろひら。1806 〜1857。『紀伊続風土記』撰修のため熊野を三度訪れている )によって作られた歌を3首、佐藤春夫は「熊野路」で紹介していますので、こちらでも紹介させていただきます。

山かつがもちひにせんと木の実つきひたす小川を又やわたらむ

木こりが餅にしようと木の実を浸している小川をまた渡るのだなあ。

大かたは秋とも知らぬ山かつが笥(け)に盛る飯は木の実なりけり

木こりが弁当箱に盛っている飯は木の実であるのだなあ。

山かつがまとふつづりの古衣さしもおもはずよそにききしを

木こりが草を織って綴った古衣をまとっていた。噂には聞いていたが、思いがけず、実際に見ることができた。

 加納諸平が訪れた当時、熊野の山中に暮らす人々はまだ木の実を主食とする採集生活をしていたのですね。
 同じ紀州であるのに紀北とはまるで違う紀南(熊野)の風俗に加納諸平は驚きを覚え、その驚きがこれらの歌となったのでしょう。

(てつ)

2004.2.1 UP

◆ 引用文献・参考文献

『定本 佐藤春夫全集 第21巻 評論・随筆3』臨川書店
 (歌を引用。引用個所は162頁・164頁)
梅原猛『日本の原郷 熊野』とんぼの本 新潮社

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