24年の在院期間のうちに28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇。
その熊野御幸の特色として、道中、宿所となる王子社などで神仏を楽しませるために和歌の会が度々催されたことが挙げられます。
その和歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した自詠自筆の和歌懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。
現存する熊野懐紙とその歌の数は現在のところ、35枚、70首。和歌会の催された年月日、場所、歌題によって7つに分類することができます。
1.正治2年(1200)12月3日 切目王子 「遠山落葉、海辺晩望」…11枚22首
2.正治2年(1200)12月6日 滝尻王子 「山河水鳥、旅宿埋火」…11枚22首
3.年月日未詳(正治2年と推定) 藤代王子 「山路眺望、暮里神楽」…3枚6首
4.年月日未詳(正治2年と推定) 場所未詳 「古谿冬朝、寒夜待春」…2枚4首
5.年月日未詳(正治2年と推定) 場所未詳 「行路氷、暮炭竈」…4枚8首
6.建仁元年(1201)10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」…3枚6首
7.建仁元年(1201)10月14日 近露王子 「峯月照松、浜月似雪」…1枚2首
ここでは6の<建仁元年10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」>の3枚の懐紙に書かれた歌6首をご紹介します。
口語訳は語注も何もない状態から私が古語辞典だけを手がかりに訳しましたので、かなり怪しい箇所もあり、わからない箇所も多々あります。何かお気づきの点などございましたら、ご教授ください。
なお濁点は私の判断で付けています。やはりおかしい箇所がございましたら、ご教授ください。
1.後鳥羽上皇の歌。
深山紅葉
うばたまのよるのにしきをたつたひめたれみやま木と一人そめけむ
誰がこんな深山の紅葉を見るだろうか。見る者もなく紅葉を織りなす甲斐もないが、竜田姫(竜田姫は秋をつかさどる女神。紅葉を織りなす女神と信じられた)は自分ひとりのために深山の木を染めたのだろうか。
紀貫之の「見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり」(『古今和歌集』巻五 秋歌下 297)を本歌としている。
「うばたまの」は「よる」の枕詞。 「夜の錦」は、美しい錦も夜はその美しさが目立たなく着る甲斐がないことから、「甲斐がないこと」を意味する。
海辺冬月
浦さむくやそしまかけてよる浪をふきあげの月にまつ風ぞふく
浦は寒く、多くの島々をめがけて打ち寄せる波を、さらに吹き上げる吹上の浜に、月が照っているが、松風が吹く。
2.源通光(みなもとのみちてる。1187〜1248)の歌。
右中将通光
紅葉ばはしぐれのみかはたづねいるひかずのふるにいろまさりけり
山深くの紅葉の葉には時雨だけが訪ねるのか。日数が経つにつれて色鮮やかになってくることだ。
おきつかぜふきあげのはまにすむ月は霜かこほりかうらのあま人
沖の風。吹上の浜に澄み渡る月は霜か氷か、浦の漁夫よ。
3.藤原定家(ふじわらのさだいえ(ていか)。1162〜1241)の歌。
左近衛権少将藤原定家
こゑたてぬあらしもふかきこゝろあれや深山のもみぢみゆきまちけり
声を持たぬ嵐にも深い心があるのだろうか。深山の紅葉が御幸を待っていることだ。
くもりなきはまのまさごに君が世のかすさへみゆる冬の月かげ
曇ることなく澄んだ冬の月の光。その光に照らされてはっきりと見えている(吹上浜の)細かな砂(の粒の数の多さ)に、あなた様の齢〔よわい〕の数までもが見えるようです。(後鳥羽上皇様、どうかお健やかにご長寿でお過ごしくださいませ。)
※ この歌の口語訳については、もりのうさぎさんにご教授いただきました。ありがとうございます。
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(てつ)
2007.8.24 UP
2007.11.11 更新
◆ 参考文献・参考サイト
本宮町史編さん委員会『本宮町史 通史編』本宮町
大阪市立美術館編集『「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念 特別展「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」』毎日新聞社・NHK
後鳥羽院の和歌の解釈について ー 教えて!goo
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