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◆ 柿本人麻呂


浜木綿 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は万葉第二期の歌人。

 長歌(五七五七五七……七という形式の歌)・短歌(五七五七七)ともに優れ、皇室讃歌や亡くなった皇子皇女の死を悼む挽歌など儀礼歌を多く作っていることから、持統・文武両朝(687〜706)に仕えた宮廷歌人であったと考えられています。

 また恋の歌や旅の歌などにも優れた作品を数多く残しています。万葉時代最大の歌人で、平安時代以降、歌の聖として尊崇されました。

『万葉集』

み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど 直に逢はぬかも

(巻第四 496・新499)

(訳)熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ。
「み熊野の浦の浜木綿」は「百重なる」や「幾重なる」などの序詞。

『拾遺和歌集』

み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なる心は思へどただに逢はぬかも

(巻第十一 668)

(訳)熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ。
この歌は『万葉集』巻第四の496の歌の異伝。

浜木綿 和歌山県新宮市三輪崎(みわさき)の海岸近くの孔島(くしま)という小さな島は、浜木綿(はまゆう)の群生地として知られていて、そこには、人麻呂の「み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思へど 直に逢はぬかも」(『万葉集』巻第四 496・新499)の歌碑が建っています

 画像は新宮市三輪崎の孔島(くしま)で7月上旬に撮影した浜木綿。

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 ここからは熊野に関係する記事はないのですが、柿本人麻呂という人物についてもう少しご紹介しておきます。

 『万葉集』には柿本人麻呂作と明記された歌が長歌18首、短歌約67首、合わせて84首ほどありますが、この他に『万葉集』には「柿本人麻呂歌集」からとして長歌・短歌・旋頭歌(せどうか。五七七五七七)合わせて、365首ほどの歌が採られています。
 「柿本人麻呂歌集」にあるという歌が本当に人麻呂が作った歌であるか疑わしいため、柿本人麻呂作の歌としては数えられていないのですが、これらが本当に人麻呂が作った歌であるならば、『万葉集』には約450首もの人麻呂の歌が残されていることになり、歌の総数約4500首の『万葉集』の10分の1を人麻呂が占めるということになります。

 その生涯は明らかではなく、生没年も父母などの系譜も官歴も不明。
 人麻呂は正史に一切登場せず、また『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されていることから、江戸時代の国学者の契沖(けいちゅう。1640〜1701)や賀茂真淵(かものまぶち。1697〜1769)以降、人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと考えられてきました(三位以上は薨(こう)、四位と五位は卒(しゅつ)、六位以下は死と書くように律令で決められていました)。

 しかし、古くは『古今和歌集』の真名序には五位以上を示す「柿本大夫(かきのもとのたいふ)」と書かれ、仮名序には正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、高官であったと考えられていました。
 皇室讃歌や亡くなった皇子や皇女の死を悼む歌を作って歌うという仕事の内容や重要性からみても官位が低かったとは思えません。
 下級官吏であるという説は誤りで、真実は高官であったのではないか。
 だとしたら、なぜ「死」と書かれたのか。
 哲学者梅原猛氏は「人麻呂流人刑死説」を提示しています。

 人麻呂の死については、『万葉集』巻第二に、人麻呂自身が死に臨んで作った歌が1首あり、人麻呂の死を悼む妻や友人の歌が4首あります。
 人麻呂自身の歌は、

柿本朝臣人麻呂、石見国(いはみのくに)に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷(いた)みて作る歌一首

鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ

(巻第二 223)

(訳)鴨山の岩を枕に横たわっている私を、そうとは知らずに妻が待ち焦がれていることだろう。

 契沖・賀茂真淵以降は下級官吏である人麻呂が赴任先で疫病にかかって死んだという説が一般的であったようですが、「臨死自傷」は中国の古典では刑死にあった人の歌にしか使われない語句であり、人麻呂が罪人となり、配流地で処死されたということを思わせます。
 『万葉集』で詞書に「自ら傷みて」という言葉が使われているのは、人麻呂のこの歌の他には、有間皇子の歌(巻第二 141・142)があるだけです。有間皇子は、謀反の罪で逮捕され処刑のため連行される途中でこれらの歌を歌っています。

 どんなに高い官位の人でも死ぬとき罪人であり、官位を剥奪されていれば、「死」と書かれます。
 これが『万葉集』に「死」と書かれた理由なのではないか。人麻呂は高官であったが、何らかの事件で罪人となり、石見国(今の島根県西部)に配流され、その地で処刑されたのではないか。

 人麻呂の妻が夫の死んだ場所まで駆けつけて作った歌が2首を『万葉集』には残されています。

柿本朝臣人麻呂が死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首

今日今日とわが待つ君は 石川の貝に 一に云ふ、谷に 交りてありといはずやも

(巻第二 224)

(訳)今日か今日かと私が待っているあなたは石川の貝に交じってしまっているというではないか。
石川は石見にある川。所在不詳。
人麻呂の屍が川に沈んで貝に交じっていることを歌っている。 

(ただ)の会ひはあひかつましじ 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

(巻第二 225)

(訳)じかにお会いすることはとてもできないだろう。石川に雲立ち渡れ。それを見てお忍びしよう。
古代人には人は死ぬとその霊は雲になるという信仰があった。

 続けて人麻呂の友人の歌が2首、

丹比真人(たぢひのまひと) 名を欠く 柿本朝臣人麻呂の意(こころ)に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首

荒波に寄りくる玉を枕に置き われここにありと誰か告げけむ

(巻第二 226)

(訳)私は荒波に打ち寄せてくる玉を枕に置いているが、私がここにいると誰が告げたのだろうか。
丹比真人という友人が人麻呂に成り代わって作った歌。

或る本の歌に曰はく

天ざかる鄙(ひな)の荒野に君を置きて 思ひつつあれば生けるともなし

(巻第二 227)

右の一首の歌は、作者いまだ詳(つばひ)らかならず。但し、古本、この歌をもちてこの次(つぎて)に載す。

(訳)遠い片田舎の荒れ野にあなたを置いて、思い続けていると生きた心地もしない。

 これらの歌は人麻呂の死がただの死ではなく、配流地で水に沈められて刑死したことを想像させます。

 人麻呂は死後まもなく神として祀られています。個人が神となるのは、たいていその人が恨みを残すような死に方をしている場合です。
 しかも人麻呂の命日は3月18日とされます。3月18日を命日とするのは死して怨霊となった者に限られるそうで、人麻呂の命日が3月18日であるのは人麻呂が死して怨霊となったことを表わしているように思えます。

 梅原猛氏の説を読む限り、やはり人麻呂は罪人として水に沈められて処刑されたとするのが妥当だと考えざるをえません。恨みを残して死んだ人麻呂の怨霊を恐れた人々が人麻呂を神として祀るようになったのでしょう。人麻呂は歌の神としてだけでなく、さまざまな霊験のある神となりました。
 水難を避けるには水死した人の霊を祀ればよいという信仰から、人麻呂は水難の神となり、また人麻呂は平安時代以降、「人丸(ひとまる)」と呼ばれたことから、「火止まる」で火難の神ともなりました。「ひとまる」=「ひとうまる(人生まる)」で安産の神ともなりました。「ひとまる」=「びとまる(糜止まる)」で疫病の神にもなりました。

(てつ)

2003.3.9 UP

 ◆ 参考文献

伊藤博校注『万葉集―「新編国歌大観」準拠版 (上巻)』角川文庫
桜井満訳注『万葉集(上)』旺文社文庫
新日本古典文学大系7『拾遺和歌集』岩波書店
梅原猛『古代幻視』文春文庫

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