■ 熊野の歌 |
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◆ 端唄「紀伊の国」、船玉神社 |
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幕末から明治のころに『紀伊の国』という端唄(はうた。技巧の少ない短い俗謡)が全国的に流行しました。 紀伊の国は 音無川の水上に 立たせたまふは この歌に歌われる船玉十二社大明神は、音無川の上流、本宮町の発心門(ほっしんぼ)という集落のもっと奥、熊野古道中辺路の猪鼻王子(いのはなおうじ)近くにある舟玉神社(ふなたまじんじゃ)のことではないかと思われます。舟玉神社は船の神様を祭った神社です。 山のなかです。近くに音無川は流れてはいるけれど、「なぜこんなところに船の神様が?」と思うような場所にあります。 昔、玉滝という滝つぼがあって、その淵に1枚の木の葉が落ちて浮かんでいた。そこに蜘蛛が降りてきて、ちょうどその木の葉の上に乗った。折よく風が吹き、木の葉が流されて岸に辿り着き、蜘蛛は岸によじ登って、命を救われた。 発心門では、舟玉神社は本宮大社の奥の院にあたると伝えられてるということです。 舟玉神社から本宮大社へ、「みよろの星」というきれいな星が、音無川をかよった。 という話もあったそうです。だから音無川のほうを向いて小便してはいけなかったとか(もともと本宮大社は、明治22年の大洪水に遭うまで、熊野川・音無川の合流点にある中州にありました)。
この歌の全国的な大流行のおかげで、辺鄙な山奥にある小さな神社にもかかわらず、船玉神社は全国的にその名を知られるようになりました。 歌を作ったのは江戸詰の新宮藩士、関匡(ただす)と玉松千年人(ちねと)という二人であったらしい。 しかし、それにしても、いったいなぜ鵜殿の船乗り衆は熊野灘から遠く離れたあんな山奥に自分たちの船の神様を祀ったのでしょうか。もっと近いところの山中ではいけなかったのか。なぜなのでしょう? さて、なぜ端唄『紀伊の国』は全国的に流行したのか。 「さて東国にいたりては」以降、玉姫稲荷、三囲稲荷、強力稲荷、田町の袖摺稲荷、真前稲荷、九郎助稲荷と、いくつもの稲荷さまが詠み込まれていますが、これはみな、じつは江戸吉原周辺にある稲荷社なのです。 この歌がなぜ流行したのかというと、吉原のことを歌っているからなのです。 吉原に遊んだことのある者は、玉姫、三囲、強力、田町の袖摺、真前、九郎助稲荷と聞くだけで吉原を連想し、胸をときめかせたことでしょう。 岩手県釜石市の御船祭にうたわれた船歌には、 紀の国の音無川の水上に、船玉十二社大明神、ホホヨー、ハアヨイハアーヨイ という歌詞があるそうです。当然、端唄『紀伊の国』から採られたものでしょうけれど、その流行の広がりには、テレビもラジオもない時代としては、驚異的のものがあります。 熊野本宮大社のことを船玉十二社大明神と呼ぶという説もあり、「音無川の水上」という地理に当てはまらないため無視してきたのですが、熊野川のことを新宮辺では「新宮音無川」ということもあったらしく、そうすると、熊野川上流にあった熊野本宮大社が船玉十二社大明神でもおかしくないということになります。 明治の大水害で被害を受けるまでは、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲に熊野本宮大社はあり、かつての本宮大社を大河に浮かぶ船のように見ることもできたでしょう。 ついでながら、奈良時代、熊野は良船の産地として知られていました。 (てつ) 2003.3.5 更新 ◆ 参考文献
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