■ 熊野の説話 |
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◆ 浄瑠璃「五十年忌歌念仏」 |
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本宮町の無形民俗文化財に指定されている土河屋(つちごや)の「お夏清十郎踊り」。 土河屋へ伝来については様々な説があるらしいのですが、城清助(由助とも。1832.4.20生まれ)が西国三十三ケ所巡礼の道中に大阪府石川郡春日村(今の大阪府南河内郡太子町)の西竹七の長女ソメ(1844.5.15生まれ)とねんごろになり、明治5年(1872)、土河屋で結婚。妻となったソメが土河屋に伝授したとの説がありますので(巡礼の途中で男女が知り合って恋仲になり、結婚するということはわりとあったようです)、この踊りが土河屋へ伝来したのは明治の初めの頃のようです。 「お夏清十郎踊り」の口説の歌詞をご紹介します。
清十郎は捕らえられて処刑され、お夏は狂乱となった、悲恋の事件。 この浄瑠璃には熊野比丘尼が登場します。熊野比丘尼とは、熊野信仰を広めるために全国各地を巡り歩いた女性宗教家で、三山のために勧進(かんじん。社殿などの造営修復のために寄付を求めて歩くこと)したので勧進比丘尼とも呼ばれ、「熊野勧心十界曼陀羅」を持ち歩き、その絵解きをして熊野権現の慈悲を説いたので絵解き比丘尼とも呼ばれ、また、ささら(竹を細かく割って束ねて作った楽器)を摺りながら歌念仏や流行唄をうたって人々を引き付けもしたので歌比丘尼とも呼ばれました。 それでは「五十年忌歌念仏」の粗筋を(熊野に関連がある場面は現代語訳して)ご紹介します。
和泉国水間の里の百姓、左治右衛門の息子、清十郎は、播州姫路の米問屋但馬屋九左衛門方で奉公していた。 堪十郎は「但馬屋へは行かないほうがよい」と言う。「清十郎が旦那の娘お夏と密通して身籠らせた。お夏は親戚への縁談が決まっていて、自分がここで嫁入り道具を受け取り帰国し次第、嫁入りするが、あの腹では問い質されるに決まっている。そうなれば、清十郎ははりつけ、親兄弟も同罪である」 堪十郎の船に嫁入り道具を積み込みに蒔絵屋の船が近づいてくる。
お夏の嫁入りの準備でにぎわう但馬屋。しかし、お夏はまったく嫁入りする気がない。お夏の心は清十郎にあった。 清十郎は奥に嫁入りの蚊屋を見つける。お夏は清十郎に駆け寄り抱きつく。 しかし、源十郎はすぐさま勘十郎に報告して二人は捕らえられた。 夜になり、お夏は部屋を忍び出て門の外に出てみると、清十郎がいた。「二人で逃げ出そう」とお夏は言うが、「それでは親方の憎しみが増す。親元に帰り、親とともに勘十郎の悪事をただし、実の潔白を証明して詫びれば許してもくれるだろう」と清十郎。二人は互いの服を取り替えた。 別れようとしたとき、下女が出てきて清十郎をお夏と勘違いし、清十郎を連れて門の中に入れる。清十郎は部屋に入るふうをして釜の中に身を隠した。 そうとは知らない清十郎。釜の蓋を開けて辺りを見回すと、行灯をつけた勘十郎の部屋に源十郎が来て二人で話をする。そのうち、行灯が消され、源十郎が寝入ってしまう。勘十郎は源十郎を自分の布団に移して自分は納戸に入る。 ここからしばらく全文現代語訳。
「夜さ恋(よさこい)という字を金紗で縫わせ、裾に清十郎と寝たところ、裾に清十郎と寝たところ(当時の流行唄。「夜さ恋」は、晩に忍んで来いの意。恋の字を大きく崩し、肩から腰にかけて金糸で縫い、裾にはお夏と清十郎の逢い引きの様を模様にした伊達衣装があった)」 流行唄をうたい、「ちと勧(ちとかん。少し勧進の意。熊野比丘尼が寄付を求めるときにいう言葉。)」と寄付を求める二人の熊野比丘尼(お俊とお三が清十郎の身を案じて熊野比丘尼に扮して郷里から姫路に向かっている)。 「姉様、これ。勧進柄杓(熊野比丘尼が金品をもらうときに受ける柄杓)の柄。笑顔がよいといって柳が招く(?)。黒髪を剃ってなぜ浮き世を恨んで尼になったのか。尼崎とは海の近くなのに、なぜそなたは潮(愛嬌)がないのか。節は哀れに姿は派手に歌念仏をうたう歌比丘尼」 「向いを通るは清十郎じゃないか。笠がよく似た、菅笠が。よく似た笠が。笠がよく似た菅笠が。笠が道しるべの物狂い」とお夏。 恋する人を夜な夜な尋ねるのを気狂いといってお笑いなさるな。 「ねえねえ、そこにいるお坊さん。私の殿御を返してください。どこへ連れて行くのか。男を返してください」とお夏。 「小船造りてお夏を乗せて、花の清十郎に櫓を押さしょえかん(当時の流行唄)」 観音菩薩の誓いには、枯れた木にも花が咲く、花笠。笠に挿したのは梛の葉(ナギは熊野の神木。ナギの葉はお守りになった)。腰に挿したのもナギの葉。 水も漏らさぬ仲睦まじさなのに引き合わせない神の心。熊野の神はお留守か。足柄箱根玉津島貴船や三輪の明神も、神ならば尋ねる人に逢わせてみせよ。 二人の比丘尼も涙をこらえ「私も尋ねる人のため仮に比丘尼に扮しているのだ。思い当たることがあれば知らせ申し上げよう。国所、有り様を語りなされ」… 現代語訳終わり。続きはまた粗筋のみで。 お夏は「その人の名は清十郎」と言う。 お夏は清十郎を見て泣き出し、清十郎はお夏に気づく。清十郎は最後のたばこを所望し、許され、お夏がたばこを差し出す。一服ののち、清十郎はそのきせるでのどを突いて自害をはかる。お夏も役人が立てていた抜き身の槍にのどを突き自害をはかった。 その後、代官所の役人が但馬屋一家や清十郎の父、左治右衛門を連れてやってきた。左治右衛門は証文を書いたいきさつを話し、清十郎も最期に息も絶え絶えに恨みを述べる。 すぐさま勘十郎はもとどりを切り捨てる。道心を起こした勘十郎は、己の悪事を懺悔し、「斬ってさらし首にせよ」と言いきった。 これで「五十年忌歌念仏」はお仕舞いです。 熊野比丘尼は、庶民への熊野信仰の浸透に多大な貢献を果たしたと思われるのですが、熊野信仰の衰えとともに彼女らも零落しました。 (てつ) 2005.7.10 UP ◆ 参考文献
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