■ 熊野の説話 |
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◆ 平忠度の母と妻 |
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平忠度(たいらのただのり:平忠盛の六男。清盛の異母弟。?〜1184)は熊野生まれの熊野の育ちと言われ、熊野川沿いの音川が生誕の地と伝えられます。 平忠盛が熊野に来たときに熊野の女性を見初めて結ばれ、忠度を生んだのでしょう。 忠度の母については『平家物語』巻一の「鱸(すずき)の事」に以下のように記されています。 忠盛はまた上皇の御所に仕える女性を恋人に持って通われたが、あるときのその女房の局に、端のところに月を描いた扇を忘れてきたので、仲間の女房たちが「これはどこからの月影だろうか。出所があやしいですねえ」と笑い合った。すると、かの女房は、
と詠んだので、忠盛はこれを聞いて一層愛情が増した。似たもの夫婦といった風情で、忠盛も風流だったが、かの女房も優雅だった。薩摩守忠度は母はこの女性である。 この話は後から創作されたものらしいですが、この話の通りだとすると、この女性は熊野から京に出て忠度を愛を受け、子を宿してから熊野に戻り、忠度を生んだということになりそうです。 また忠度の妻も熊野出身の女性でした。 忠度が一の谷で討たれてから1年後、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)2月19日の条には以下のような記事があります。 その後、熊野山領の三河国の竹谷・蒲形両庄のことで、その決定があった。当庄は、開発領主散位俊成が熊野山に寄進したことから始まり、熊野別当湛快(※第19代熊野別当※)がこれを領掌し、女子に贈与した。 熊野の女性は強かったのだなあ、と感じさせる記事です。 ついでながら、その2日後『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)2月21日の条には以下のような記事があります。
熊野水軍が源氏方として参戦したことが京で噂となりました。 (てつ) 2011.8.29 UP ◆ 参考文献・参考サイト
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