■ 熊野の説話 |
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◆ 国阿上人への示現 |
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時宗(元々は時衆。鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教)の国阿派の国阿上人についての『国阿上人絵伝』一二に次のようなお話があります(『大日本史料』七一七)。 こうして紀州に至り、名草郡紀三井寺の救世菩薩に巡礼し、藤代御坂をお登りになる。ここに熊野権現の一の鳥居がある。名にしおう松の木陰に御社がある。ここより本宮へ三十三里、5日で本宮へ参れるとか。 道中、六時不断の行法を怠らず、在所在所、念仏勧進してお通りになると、山は高く険しく、道も険しく草木は森々と茂って、山風が谷に広がり、ほんとうに憂き世の外に出たようで、心の塵なく、山谷の水に沐浴して内も外も清浄の身となって、少しやすらいでいらっしゃるとき、聖がお詠みになった歌、
それから鹿が峠、原の谷、塩屋峠などを過ぎて、岩代の王子という社がある。昔、有間皇子が祈願あって、松の枝とを引き結んで、「ま幸(さき)くあらばまた帰り見む」と詠じた古歌が思い出されて、しみじみと心を動かされる。 謀反のかどで藤代の坂で殺された悲劇の皇子、有間皇子の詠じた古歌とは、『万葉集』巻第二に収められた2首(141・142)のうちの1首。せっかくですので、2首ともご紹介しておきます。
松の枝と枝とを引き結ぶというのは、無事を祈るまじない。椎の葉に盛った飯も神への手向けで道中の無事を祈っています。 さて、続きを。 切目という所は、後ろは山、前は海で、風景類のない所である。八十二代後鳥羽院は二十四度、熊野へお詣でになったので、この地に行宮をお造りにならせていらっしゃったということだ。 南部峠という難所を過ぎて田辺という所まで2里ばかりの平地の道である。塩見峠・鹿が坂・金が坂というのは第一の険難である。 伏拝という所は和泉式部が詣でたときに、ここで「月の障りとなるぞ悲しき」と詠んだところ、権現がお現われになって「塵にまじわる我なれば月のさはりは何か苦しき」との御返歌があって、参詣した所である。 さて、本宮の石田河(いわたがわ。本宮は熊野川・音無川・石田川の3つの川の合流点の中州にあった)で垢離をかいて、社前へお参りになった。 そもそも本宮の本社は証誠殿(しょうじょうでん)で、本地は阿弥陀如来である。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の皇子、早玉男(はやたまのお)を祝い祀った御神である。 少しおまどろみになったとき、夢でもなく現でもなく、お告げになるお言葉があった。 聖はそのように新しい示顕を受けて、信心を肝に銘じてありがたく思いました。 本宮の本社は証誠殿と呼ばれます。証誠殿とは、念仏者の極楽往生を保証する神様がいらっしゃる社殿ということ。 とくに時宗にとって熊野本宮はとても重要な場所でした。 南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのは、じつはこの時宗でした。 (てつ) 2005.8.4 UP ◆ 参考文献
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