み熊野ねっと 熊野の深みへ

blog blog twitter facebook instagam YouTube

藤原頼資『修明門院熊野御幸記』(現代語訳5)

藤原頼資の修明門院熊野御幸随行日記(現代語訳5)

 承元4年(1210年)の修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資(ふじわらのよりすけ)の記録『修明門院熊野御幸記』を現代語訳してしてご紹介します。このページは5月3日〜4日の分。

  1. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳1
  2. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳2
  3. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳3
  4. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳4
  5. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳5
  6. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳6
  7. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳7

 漢文は不得手なので、間違っている箇所が多々あると思います。お気づきの点などございましたら、メールフォームはこちら

修明門院熊野御幸記

5月3日

三日、庚寅(かのえとら、こういん)、天気晴れ。
早朝に御宝前に参った後、御船にお乗りになる〔御船を寄せることは、別当が指図したのか。引き幕を用意し、仮に御船の辺りを引き廻される〕。御先達は御船に参られない。

次の船は小さな屋形を構える。
女房の御船が2艘、同じく小さな屋形がある。

雑人が順番に乗船し先陣。
公卿・殿上人は一人一人私の船を用いる。

楊枝河原で昼御養。入御はない。

午の初め(※午前11時頃)に新宮に御着きになる。
御輿に御乗りになり、すぐに御参宮。次に御所に御着きになる。
予は宿所を退出して、すぐに参宮・奉幣。この御山の師の小松法橋はすぐに兼ね行う。予は奉幣・経供養以後退出。

御所に参り、夜に入って御奉幣がある。事ごとに本宮のよう。ただし出御のとき御禊はない。お供の人々は奉幣衣裳である。
また若宮殿の御前、一万十万の御前で、併せて取り合い、御奉幣がある〔御輿は本宮での儀式のよう〕。事が終わって礼殿御所に入御。

御明布施〔信能朝臣がこれを取る〕、御誦経〔予がこれを取る
御経供養〔宰相中将がこれを取る〕、御神楽の禄〔庁官がこれをお与えになる〕、
御加持布施〔予らがこれを取る〕、別当の禄〔信能がこれを取る〕、
次に御鉢五口〔御先達がこれを取る。本宮のように簾の下に参る。ただし祢宜は浄衣を差し置く役である〕、次に僧供を引く〔御所に御下がりになる〕。

   今日、明日の伝馬のことを重く加え催す。僧綱以下これを進める。公卿・殿上人は庁より伝馬をくださらない。また船がなくその指図をする。七条院の御幸は、殿上人がこれを給うとのこと。良し悪しはどうだろうか。

5月4日

四日、辛卯(かのとう、しんぼう)、天気晴れ。
早朝に宝前に御参りした後、那智の御山へ御幸〔公卿以下騎馬で先駆け〕。

次に阿須賀王子(※阿須賀神社) に御参りし、御奉幣がある。祢宜が祝詞を奏上する〔衣冠(いかん:束帯に次ぐ正装。束帯から下襲(したがさね)と石帯をはぶき、表袴(うえのはかま)と 指貫(さしぬき)にかえた活動的な服装)〕。主典代が禄をお与えになる。御正体を祢宜が懸け奉る。御経供養・御神楽は日頃のよう。

次に高蔵王子〔紀伊湊〕に御参り。
次に佐野で昼御養事がある。次に佐野王子に御参り。次に一乃野(※市野々王子)、次に道祖神、次に那智に御着きになる。

まず滝下に御参り〔拝殿において御輿に居て昇り奉る。信能朝臣らがこれにお仕えする〕。御奉幣・御経供養は例のごとし〔道すがら御導師が布施をお与えになる。殿上人がこれを取る〕。道すがら御正体・絵馬・八女など残りの分がここで献上される。
次に千手堂に御参り。まず御誦経がある〔寺の僧が御導師を勤める〕。予は一裏を給う。次に御加持があり〔山籠30口〕、布施をお与えになる〔布5反・一裏、白い美しい布である。予らがこれを取る〕。次に御参宮。次に御所に御着きになる。

次に夜に入って御奉幣がある。その儀式は新宮のよう。ただし飛滝権現の御幣を取りそろえる。
証誠殿で御奉幣がある。次に礼殿御所に入御。御明以下儀式の順番は本宮や新宮のよう。よってこれを略する。

執行の禄は予が取る。僧供の事は礼のごとし。供物が少なかったので御先達はことに傷つけられ申すか。15果積む。じつにもって不便不便(ふびん:具合が悪いこと、そのさま)。
験競べ・乱舞は本宮のよう。方延年の遊がある。上下の僧徒がこれを準備する。
事が終わって御所に御下がりになる。

back next

(てつ)

2010.10.31 UP
2020.9.1 更新

参考文献