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◆ 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』(現代語訳1)


 承元4年(1210年)の修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資の記録『修明門院熊野御幸記』を現代語訳してしてご紹介します。

 修明門院(1182年〜1264年)、藤原重子(ふじわら の しげこ/じゅうし:高倉重子とも)は、後鳥羽天皇(1180年〜1239年)の後宮で、順徳天皇・雅成親王・寛成親王(尊快入道親王)の生母。藤原重子(ふじわら の しげこ/じゅうし)。高倉重子とも。
 建久8年(1197年)16歳で守平親王(後の順徳天皇)を産み、その後も皇子2人を産ました。承元元年(1207年)25歳のとき、准三宮になり、さらに女院号の宣下を受けて修明門院と称します。承元4年(1210年)29歳のとき、守平親王は順徳天皇として即位し、重子も国母となりました。

 修明門院は生涯に11度の熊野御幸を行っていますが、今回現代語訳してご紹介するのがその最初の熊野御幸の記録です。

 数ページに分けて口語訳します。このページは4月17日から20日までの分。

  1. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳1
  2. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳2
  3. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳3
  4. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳4
  5. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳5
  6. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳6
  7. 藤原頼資『修明門院熊野御幸記』現代語訳7

 お気づきの点などございましたら、ぜひご教示ください。ご教示を受けながら徐々によい訳文にしていきたいと考えています。メールフォームはこちら

4月17日

承元4年4月17日、甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)。今日、修明門院が院号の宣下を受けて後、初めて熊野御幸があり、よって精進屋に入御の日である。天は晴れ、風は静か。権現冥助之先表以之知るべし。

七条院(※藤原殖子。後鳥羽天皇の母※)は七条坊城御所為其所〔侍所為庁、南殿為御先達(長厳)御所〕、上皇(後鳥羽上皇)の毎度の精進屋はここである。布設・掃除以下、前もってその指図がある。

抑依鳥羽・後白河2代の嘉 、上皇あるべし[     ]仰せ下す所。さる12日坊門院〔(※範子内親王※)上皇の御姉、主上(※土御門天皇※)の准母 后。〕、頓以帰□(寂か)。[  ]御軽服日数その憚りがある。よって於御幸者延引。来月遂げられるとのこと。日時が決定した。

権右中弁(葉室)宗行朝臣が早朝に図書頭(賀茂)在親朝臣を召して日時を考えさせ、箱に入れて、これを奏上する。
次に御浴。次に御精進屋に入御。
これに先立ち予は潔斎、浄衣〔立烏帽子、公卿・殿上人以下、小袴・浄衣を着るべしとのことを仰せ下される。予らはその命令を守った〕を着る。
あかりを灯すころに、精進屋に参御。
これに先立ち、人々は参会。
数刻の後、入御〔庇御車で〕がある。
門の下において御牛を解き放つ。

先駆けの人々。源大納言(久我通光)・東宮大夫(大炊御門師経)以下、門外に列ぶ。内官〔直衣〕が参入。
前もって御車寄せを設ける。

権弁は門内において入御の間に雑人を去らせる〔小袴・浄衣・三目所を着るのだ〕。
御車を庁官らが引き入れる間に、権弁は松明を取って先に行く。参詣しない者・公卿・殿上人は門内に入らないのがしきたりである。
夜の間は階と左右に常灯を供える〔在打板〕。内府(徳大寺公継)が御車を寄せられる間、宗行朝臣を召し、相ともに打板以下所装也。
この間、参詣者・公卿・殿上人は列んでいる。

次に下御の後、御車を引き出す〔門外にいて指図がある〕。源中納言雅親卿の宿所に立てられた。御精進屋の内では御車は立てられない。これはしきたりである。
次に庁官らが監臨、犬禦を立てる〔坊城面両門、南面小門、北面小門などである。坊城面を御所にするためである〕。

まず御禊装束を供える。御拝仮屋三面懸亘伊予簾(南面御階以西砌の下にこの仮屋はある)。その中に□筵2枚を供え、その上に高麗半帖を供える。その北に膝突〔円座〕を敷き、陰陽師の座にする。
八足前 居御注連長○(※木へんに長※)〔庁官2人がこれを役する〕
次 に出御。次に御贖物を供える。陪膳は源宰相中将(有経)〔先々四位の殿上人がこれを勤めるが、別に御定があり、卿がこれを勤める〕が役する〔左少将(一 条)信能朝臣、権右中弁宗行朝臣〕。この間、御先達〔大僧正長厳〕・公卿らは人形。上北面散位(藤原)信経がこれを賦(くば)る〔先々六位が勤めるのだ。 この度はかくのごとし。如何〕。今殿上人・上北面分は、庁官1人でこれを賦る。
これに先立ち陰陽権助(安部)晴光朝臣が〔長袴で〕座に着く。御禊が終わって、大麻を進める。信能朝臣が進み寄ってこれを取り、源宰相中将に伝える。中将が簾の中に進み入る。
次に御贖物を取り下げる。役人は初めてのようだ。この間、公卿・殿上人以下中門の辺に列んでいる。床子(※しょうじ。腰掛け※)を用いる者もあり、敷皮を用いる者もある。この間、庁官1人が南庭に居る。松明を燃やす。
次に権弁が御幣を取って〔庭の中でこれを取る。庁官がこれを伝える〕、御先達に献じる。御先達は南に向いて勧請〔この間、庁官が御花米を置く〕。々々が終わって小先達・宰相律師が幣を給い、南庭ナギの柴垣の上に立てる。

次に御注連を引く。波介札をなどを立てる。御先達がこれを行なう。
御拝屋の御注連は上北面大隈守(藤原)康業・左馬権頭(藤原)直綱らが進み出て、これを引く。御所にするためである〔先崎は侍がこれを引くか〕。余りの所々から庁官・召使らがこれを引く。

次に取り下げる半帖筵1枚上敷御皮〔殿上人がこれを致す〕。御拝の所あるべし。今度、御障の間、御拝座無出御。御浴の後、注連を引く。御所に御座。御拝はなしとのこと。よってこの儀式はなし。

次に夕御膳を供える〔朱漆御盤・基埦御器〕。まずご御飯上分を取り、食棚の上に置き施す〔番衆の役である。この棚は南庭のナギの柴垣の上にこれを立てる。前もって所立設けるのだ〕。公卿・殿上人・上北面食事進物所がこれを設ける。よってこれを行なって宿所に退出。
精進を始める。先達がこれを行なう。夕方、所作が終わって御所に帰参。宿でお仕えする。

 

4月18日

十八日、乙亥(きのとい、いつがい)、まだ曙の間、庁官らが相率いて参入。
立明、先の御浴、次に出御し、御禊がある。その儀式は昨夜のごとし。
信能朝臣が遅参の間、予がお仕えし役送。予は先之閑所において例のごとく行水・礼拝。
所々と御庄から庄の人夫らが到来。庁が順番に請け取るのだ。
すぐに神宝所・進物所等以下に分け遣わす。

山伏、夏僧装束・引物・糧などが到来。御室(道法法親王)と花山・前右府(忠経)以下が各所被沙汰進のだ。

御膳3度、常のごとし。進物所が進めるのだ。
夜に入って〔戌の刻(※午後8時頃※)〕御浴・御拝は常のごとし。庁官を召して松明、例のごとし。御禊のない例である。施食毎日供えられるのだ。

 

4月19日

十九日、丙子(ひのえね、へいし)、天気晴れ。
暁夕、昨日のように御所で所作など。
今日所々諸寺の人夫が到来し、人々に分け給う間、喧嘩。

 

4月20日

二十日、丁丑(ひのとうし、ていちゅう)。朝から甚だしい雨。
暁と夕方に御所作、一如昨。
花山院前右府・右大将(三条公房)・二条大納言(定輔)ら以下、進女騎馬・鞍を置き、相雨具を具す〔唐□(竹かんむりに登)所相具すのだ〕。
付可然之受領被召之か。

 

 漢文は不得手なので、間違っている箇所が多々あると思います。お気づきの点などございましたら、ぜひご指摘ください。メールフォームはこちら

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(てつ)

2010.10.30 UP

 ◆ 参考サイト・参考文献

『本宮町史 文化財篇・古代中世史料篇』

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■修明門熊野御幸記
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