中辺路を後にし熊野大社へ向かうことにした。
熊野大社の中に舟玉神社があると思い行ってみたものの
残念なことにここにはないと、若い宮司さんがいったのであきらめてしまった・・・・
が、熊野のネット友達の雅子さんからメールにて舟玉神社の画像をいただきました♪
また、朝日新聞の日曜版に熊野のことが載ってたのでここに記載させていただきます。(H.12.2.13)

 「秘境・熊野 癒しの地」
 現代ならば、こんな宣伝文句が大書きされたはずだ。熊野那智参詣曼荼羅は、いってみてば観光ポスターだった。
 平安時代末期以降、熊野詣での主役は、皇族。貴族から武士や富農などに移っていった。
数珠繋ぎに熊野に向かう人の様子は「蟻の熊野詣で」と呼ばれた。
熊の古道の玄関口。和歌山県海南市の藤白神社の宮司で、古道ガイドでもある吉田昌生さんは
「そのころから、熊野への旅行システムが全国的に機能していた」という。
 旅行会社に例えると、セールスウーマンが「熊野比丘尼」。
熊野信仰を広めるために全国に散った女性たちだ。街角で、市場で、村里で、この曼荼羅を見せながら説明、勧誘した。「熊野の神はだれでも受け入れます。参れば、必ず極楽浄土に行けますよ。見て御覧なさい。上皇、貴族から庶民まで、たくさんの人が来ていますよ・・・・」という具合に。

 旅行添乗員は、熊野の山伏だった「先達」(せんだち)。比丘尼と先達は、しばしば夫婦だった。熊野に着くと「御師」(おし)と呼ばれる人達が待っていた。宿屋のおやじであり、現地のガイド役だった。

 彼らが広めた話に、倭和泉式部伝説がある。本宮まであとわずかの場所で、式部が生理になった。
「不浄な体で詣でることはできない」と嘆いたが、夢に熊野の神が現れ、こう告げる。
「もろともに塵にまじわる神なれば月の障りも何かくるしき」。式部は喜んで参詣を遂げた。

 和泉式部が熊野に詣でた事実はない。だが、熊野の神は女性に寛容であると受けとられ、たくさんの女性たちの参詣につながっていく。霊場の多くが女人禁制だった時代、女性も大事なお客さんだと考えていたことがうかがえる。

 熊野までの道は京都からでさえ遠い。藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」によれば、一行の総行程は往復で600キロ以上で20日間を超えた。定家は「風邪で苦しいのに海の水を浴びた」「宿は狭くて、漁師の小屋のようだ」と、道中、嘆いてばかりいる。

 人々は関東や東北からもやってきた。いまなら「アマゾン川の源流を訪ねるツアー」といった感覚だった。実際、旅の途中で食料が尽き、疲れて倒れ、死んでいった人たちの墓石が、いまもあちこちに残っている。

 文句ばかり言っていた定家は、本宮に到着する直前のことを「感涙禁じ得ず」と記している。
そう、人々は「泣くため」に熊野へ行った。

文  西 秀治

定家は泣くために・・とあるが、他に理由があるはずだ。現代でも世紀末だとかいって新興宗教、占いやなんやらに走ったりする人も少なくはなかろうと思う。
安易に行ってしまった私には有難味がかけているようだ^^;

初めての熊野 完


かりんさんの熊野参詣記Topに戻る