み熊野ねっと 熊野の深みへ

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増基法師『いほぬし』

増基法師の熊野詣

 増基法師(ぞうきほうし)。生没年未詳。平安中期の歌僧。中古三十六歌仙のひとり。10世紀後半ころに活躍した人物と考えられています。
 増基法師の作と伝えられる紀行文『いほぬし(増基法師家集)』には、京都から中辺路を経て本宮に参詣し、本宮から新宮の御船島を経、伊勢路を歩き、花の窟を経て京都に帰る熊野詣の紀行文が記されています。

『いほぬし』現代語訳

 いつごろのことであったろうか。世を逃れて心のままにあろうと思って、世の中に聞きと聞く所々、趣が深い所を訪ねて、心をやり、あるいは貴い所々を拝みたてまつり、我が身の罪を滅ぼそうとする人があった。いほぬし(庵主。いおぬし。増基法師自身のこと)といった。

 神無月(陰暦の十月。初冬)の十日ころに熊野へ詣でたが、「一緒に行こう」などという人々もあったけれど、我が心に似ている人もなかったので、ただ忍んで通し、ひとりで詣でた。

 京より出て、八幡に詣でて泊った。その夜の月が趣が深くて、松の梢に風が涼しくて、虫の声も忍びやかで、鹿の音がはるかに聞こえる。普段の住処とは異なる心地も、夜が更けていくとさらに、しみじみと風情を感じる。 

 いかにもこのようであるので、神もお住みになるようだ、と思って、

こゝにしもわきて出(いで)ける石清水(いわしみず) 神の心をくみて知はや

(訳)ここにも石清水が湧き出ているよ。神の心を酌んで(「知はや」の訳し方がわかりません。「知らばや」で「知りたいものだ」でしょうか)。

 (中略)

岩代

 岩代の野で寝た夜、何かわけがあるのだろう、歌を詠んだ。

岩代のもり尋てといはせばや 幾代か松は結び始めし

(訳)岩代の森に「尋ねてほしい」と言わせたいものだ。「いつのころから岩代の松は結び始めたのか」と私が尋ねたいのだから。

 ちかの浜(たぶん千里の浜)で小石を拾おうとして、

うつ浪にまかせてをみん 我拾ふはまゝの数に人もまさらし

(訳)打ち寄せる波に我が身も任せてみよう。私が拾う浜辺の数々の小石に人が優っているわけでもあるまい。

南部の浜

 南部の浜で知っている人が御山(みやま。熊野山)から帰るのに会った。
「同じことなら一緒に参詣なさってくださいよ」と言うと、その人は「こっそりと祈願なさることもあるといけないので」と言うので、いほぬしは「どんなことがあろうか。人を疑うと罪になりますよ」 と言って、拾った貝を手でもてあそびながら投げつけると、「物洗貝が殖えるらしい。そのように言い争いなさるな」と言ってヤドカリの殻を投げて寄越した。

 また波に藻が浮かんで打ち寄せられるのを見て、「あれをご覧なさい。入りぬる磯の」と言うと、帰る人は「こふる日は」と心ありがほに言うので、いぬほしは「熊野は成り行き任せで」と言うと、「浦のはまゆふ」と答える。いぬほしが「かさねてだになし」と言うと、帰る人は「中々に」と言って、

もしほ草浪はうつむとうつめともいや現れに現れぬかり

 いほぬしは返歌に、

みくまのゝ浦にきよする濡衣のなき名をすゝく程と知なむ

 などと言って発つと、「それでは京で」と言うので、いほぬしは、「おさふる袖の」と答えると、「ああ不吉な。後ほど」などと言って発った。

牟婁の港

 その夜、牟婁の港(田辺)に泊まった。木のもとにコナラの紅葉した枝葉で庵を作って、そこに入り横になったが、夜が更けるにつれて時雨がせわしく降るので、

いとどしくなげかしきよを神無月旅の空にもふる時雨かな

(訳)ただでさえ嘆かわしい世なのに、神無月(陰暦10月)の旅の空にも時雨が降ることだ。

御山

 御山(ここでは熊野の霊域の始まりとされた滝尻付近と考えられます)に着いたところ、木の根元ごとに手向けの神が多く祀られていたので、水のみ(水飲。高原と大門王子との間にあった休息地。猪鼻王子と伏拝王子の間にある水飲王子とは別物)に泊った夜、

万代(よろずよ)の神てふかみにたむけしつ 思ひと思ふことはなりなん

(訳)万代の神という神に手向けした。願うことはすべて叶うだろう。

熊野本宮

 それより三日の後、御山(みやま。ここでは熊野本宮)に着いた。ここかしこ巡って見ると、庵室が二、三百ほどあり、それぞれが思い思いにしている様子もたいへん趣深い。親しく知っている人のもとに行ったところ、蓑を腰に衾(ふすま。寝るときに上にかける夜具)のように引きかけて、ほだくい(榾材。燃え尽きずに残った木。燃えさし)というものを枕にして、ごろ寝していた。

 「おいおい」と声をかけると、目を覚まして、「早くお入りなさい」と言って、庵室の中に入れて、もてなそうとして、碁石筍(ごいしけ。碁石入れ)の大きさである芋の頭(いもがしら。里芋の根元の固まり、親芋)を取り出して、弟子に命じて焼かせる。「これぞ芋の母」と言うと、「それならば乳の甘さであろうか」と言うと、「子どもに食わせたいものだ」と言って、あれこれと世話を焼いてくれる。そうこうしているうちに、鐘が鳴ったので、御堂へ参った。

 頭を引き包んで蓑を着て、ここかしこに数え切れないほどの人々が詣で集まって、例時の作法(定めた時刻に仏前で勤行すること)が終わって、退出するが、僧正の御前に止まる者もあり、礼堂(証誠殿の前にあった礼拝読経のための建物)のなかの柱の元に蓑を着て、忍びやかに顔を引き入れている者もあり、額突き、陀羅尼を読む者もある。声が一緒くたになって聞きにくく、無遠慮だと聞こえる声もある。

 このように本宮の神様のおそばにいるうちに霜月(陰暦の十一月)の御八講(はこう。法華経八巻を八座に分け、一日に二座講じて四日間で終える法会)になった。その有り様は普段と異なり、しみじみとして貴い。八講を終えての翌朝に、ある人がこう言い起こした。

をろかなる心の暗にまどひつゝ 浮世にめくる我身(わがみ)つらしな

(訳)愚かな心の闇に惑いながら、浮世を巡る我が身が心苦しいなあ。

 いほぬしも、この事を心から同感して、道心(どうしん。仏道に帰依する心)を仏のようだと思う。

白妙の月また出(いで)ててらさなむ かさなる山のおくにいるとも

(訳)白い月がまた出て照らすだろう。重なる山々の奥にいるとしても。

 また長年の間、出家せずに家に尽くしたことを悔いて、

玉のをもむすぶ心のうらもなく打とけてのみ過しけるかな

(訳)玉の緒も結ぶように固く結縁したのに、心浅くも俗世にばかりうちとけて過したものだなあ。

 そうして、おそばにいるうちに、霜月二十日ころで、明日退出しようと思って、音無川のほとりでくつろいでいると、人が「もうしばらく本宮の神様のおそばにいらしてくださいよ。神様もきっと許さないでしょう」などと言う、そのときに、頭の白いカラスがいて、

山がらすかしらも白くなりにけり わがかへるべきときや来ぬらん

(訳)山カラスの頭も白くなった。私が故郷に帰れるときが来たのだろう。

 そうして、人の庵室に行ったところ、ヒノキを人が焚くのが、勢いよく燃えパチパチ火の粉を散らせるのを見ていると、庵室の主が「この山(熊野山)は榾材に験があって、これを『はたはた』と申すのだ」と言うので、「それは薪の燃える音なのでしょう」と言って出発した。

御船島

 そうして、御船島(みふねじま。三重県南牟婁郡紀宝町鮒田。熊野速玉大社近くの熊野川に浮かぶ島)という所で、

山の尾に誰さほさしてみふね島 神の泊りにことよさせけむ

(訳)山裾の尾のように見える御船島に誰が棹さして神がお乗りになる船を導き、神のお泊り所とお決めになったのだろう。

ただの山の滝の元

 ただの山の滝の元にて、

名にたかく早くよりきし滝の糸に世々の契りを結びつるかな

(訳)名高く早くより来た滝の糸で三世(前世・現世・来世)の契りを結んだことだ。

 この山の有り様は、人に言葉で言うことができないほど、しみじみと貴い。帰ろうとしたとき、そこで貝を拾おうとして、袖が濡れたので、

藤衣なぎさによするうつせ貝 ひらふたもとはかつぞ濡れける

(訳)渚に寄せるうつせ貝を拾おうとして、藤衣の袂が濡れたことだ。

花の窟

 この浜の人(いほぬしのこと)が花の窟(はなのいわや。三重県熊野市有馬町にある)の元まで着いた。見ると、やがて岩屋の山に穴を穿って、経を籠め奉っているのであった。「これは世に弥勒菩薩がお現れになるときに、取り出して奉ろうとする経である。天人が常に天から降りて供養し奉っている」という。

 なるほど、見奉ると、この世に他に似ている場所もない。卒塔婆の苔に埋もれているものなどがある。傍らに王子の岩屋というのがある。ただ松だけが生えている山である。そのなかに、たいそう濃い紅葉などもある。

 本当に神の山に見える。

法(のり)こめて立つの朝をまつ程は 秋の名ごりぞ久しかりける

(訳)お経を穴に込めて弥勒菩薩がこの世にお立ちになる朝を待っているこの松林の付近は、久しいこと秋の名残りが残っていることだ。

 夕日で紅葉の色がよりいっそう趣深い、

 心あるありまの浦のうら風は わきて木の葉も残すありけり

(訳)心ある有馬の浦の浦風は、木の葉をすべては散らさずに特別に残してくれるのだなあ。

 天人が降りて経供養し奉るのを思って、

天つ人いはほを撫づる袂(たもと)にや 法(のり)の塵をば打ち払ふらん

(訳)天人が巌を撫でる袂で、お経に積もった塵を打ち払うのだろうか。

四十九院の岩屋

 四十九院の岩屋(三重県熊野市木本町にある鬼ヶ城か)のもとに着いた夜、雪がたいそう降り、風が強く吹くので、

 浦風に我が苔衣ほしわびて 身にふりつもる夜半の雪かな

(訳)浦風に私の僧衣を干すこともできず、我が身に降り積もる夜中の雪であることよ。

 楯ヶ崎(たてがさき)という所がある。神が戦いをした所といって、楯を突いたような巌どもがある。

打つ浪に満ち来る潮のたたかふを 楯が崎とはいふにぞありける

(訳)打つ波と満ち来る潮が戦う、ここを楯が崎というのであるなあ。

伊勢の国

 伊勢の国で、潮が引いているうちに三渡(みわたり。三重県松阪市六軒町)という浜を過ぎようと思って、夜中に起きてやってくると、道も見えないので、松原のなかで泊まった。そうして夜が明けたので、

夜をこめて急ぎつれども松の根に枕をしても明かしつるかな

(訳)まだ夜の深いうちから急いでいたけれども、松の根を枕にして夜を明かしたことだ。

逢坂

 逢坂(滋賀県大津市逢坂)越えをして休んでいると雪がちらほら降ったりする。なんとなく心細いので那智の山に泊まってしまえばよかったのに、どこへ行こうとしてこのように急いできてしまったのだろう、などと思っているところに、たまたま来合わせた人が、「どうして関をお越えになったのですか」などと言うにつけて、こう思われる。

雪と見る身の憂きからに逢坂の関もあへぬは涙なりけり

(訳)逢坂の関で雪と気づいて急いで関を越えてきたが、関も塞き止めることができないのは涙であるのだなあ。雪のような白髪の我が身が辛い。

 と詠んで出発した。

 加茂川

 加茂川の堤のもとで京極の院の築地が崩れ、馬や牛が立ち入り、女たちなどが笠をつけて金鼓を打ち歩くのを見ると、亡くなった殿がいらっしゃったときのことが思い合わせられて、やはり世の中は悲しいなあ、などと思う。

けにぞ世は鴨の川波たちまちに淵も瀬になるものにはありけり

(訳)なるほどこの世は加茂川の波がたちまちに淵にも瀬にもなるように、無常なものであるのだなあ。

 などと、木や草を見るにつけ、詠んでしまう。

平安時代中期の熊野

 これにて熊野紀行は終わり。この熊野の紀行文を読むと、平安中期の熊野の様子がわかります。

 木の根元ごとに手向けの神が多く祀られていたといい、神の山といい、やはり熊野信仰はもともとは自然崇拝であったのだなあと思います。

 本宮に200~300もの庵室が思い思いに作られていたというのもすごいです。平安中期ころにはもうすでに熊野は神仏習合していたことがわかります。

 また熊野速玉大社の例大祭「御船祭(みふねまつり)」がすでに行われていたこともわかります。
 熊野速玉大神・熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)という2神を主神として祭る速玉大社は、毎年10月15~16日に例大祭を行います。15日には熊野速玉大神の大祭である「神馬渡御式(しんめとぎょしき)」が行われ、16日には熊野夫須美大神の大祭である御船祭が行われます。
 御船祭は夫須美大神が年に一度、「神幸船(みゆきぶね)」で御船島に渡り、再び速玉大社の社殿に還ってくるという行事で、夫須美神が来臨した姿を毎年復演している祭礼。

 花の窟は 『日本書紀』にはイザナミの墓所として記されいますが、ここでは、仏法が滅んだ後の世のために弥勒菩薩が出現するという五十六億七千万年後のはるか未来にまで経典を保存する聖なる場所であると認識されていたこともわかります。

(てつ)

2003.9.25 UP
2008.5.25 更新
2019.10.12 更新

参考文献