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『熊野年代記』現代語訳 天智~桓武

年代

出来事
49. 天智 二 癸亥 三月、熊野山に大雪が降り積もること七尺余り(※約2.1m)であった。
50. 天智 五 丙寅 暮から明るくなるまで、鎮護の峯(※どこの峯かは不明、御存知の方がいらしたら教えて下さい。)に火があった。
51. 天智 六丁卯 (※天皇は)十月、熊野へ行幸された。那智山に権現が出現した。
52. 天智 十 辛未 五月、飛鳥社(※現・阿須賀神社と思われる)に白狐が出現した。
53. 天武 白鳳四 乙亥 夏から秋まで、熊野三山の小社がことごとく成立した。
54. 天武 白鳳五 丙子 八月十八日、大風雨で宮殿(※熊野三山)が破損、民屋がことごとく破損、大きな杉の木が回廊を崩した。浜の宮王子が流れ、稲も流れた。
55. 天武 白鳳六 丁丑 春から夏まで熊野三山の宮殿が修理され、秋には十分に稲が実った。
56. 天武 白鳳七 戊寅 三月に熊野三巻書を奉る。
57. 天武 白鳳十 辛巳 去年十一月に熊野に三大星(※オリオン座の三星の通称か、或いは別の大きな三つの星であったか、詳細不明)が出現、笠の如き大きさであった。
58. 天武 白鳳十一 壬午 はじめて熊野僧徒等が午王宝印を奉った。
59. 天武 白鳳十二 癸未 十一月、帝は行幸され熊野に至り、正月に還御された。
60. 天武 白鳳十三 甲申 ・去年に行幸式定、大辺路(※大辺路を天皇の帰路の下向道に)・通路を中辺路に(※中辺路を天皇の御幸道に)定めた。
・十月十四日大地震、熊野の浦々に津浪が入った。
61.天武 白鳳十四 乙酉 熊野三山が大破。修造料に黄金が下り、御輿を飾った。
62. 天武 朱鳥十五 丙戌 ・先の熊野の裸形の苗師・裸形上人がよろず下行し(※三山の様々な場所を巡っ
て)三山の修営が成就した。
・十一月十四日、新宮の民屋が悉く焼けた。
63. 持統 朱鳥二 戊子 熊野山の桃とすももが都で花咲いた。
64. 持統 朱鳥四 庚寅  二月、熊野・鬼ノ本(※現・熊野市木本町)に異国船が二艘来て、徐福の祠に詣でて詩を詠じた。
65. 持統 朱鳥五 辛卯 1ケ年に及び、熊野に山盗(山賊)が起きた。
66. 持統 朱鳥六 甲午 六月、熊野那智山の瀧が半日流れず、また流れると大海の如きであった。
67. 文武 元年 丁酉 ・大和の国・加茂(かも)姓の小角(※役行者)が熊野三山に詣で、新宮川中深谷で権現に従う明神の霊のお告げがあった。
・庵主の宿で止まりお告げを得る前後、三度の密儀があった。
68. 文武 大宝元年 辛丑 九月に行幸があり、紀伊の温泉で人丸(※柿本人麻呂のこと)が歌を詠んだ。
69. 元明 和銅六 癸丑 木の国を紀伊の国と詔した。
70. 元明 和銅七 庚寅 熊野十二社が遷宮された。
71. 元正 霊亀ニ 丙辰 九月、権現の神剣が熊野三山に納められ、本願は是に始まる。
三十人の警固を詔令し置いた。熊野に荘園を加え奉った。
72. 元正 養老四 庚申 熊野の徐福から伝わったという唐紙様式の紙(※那智で作られるようになった『徐福紙』のことと思われる)を献じた。
73. 元正 養老七 癸亥 詔(みことのり)があり、神遷(※神が移られる事)の秘文を神祇伯(※宮中の祭祀を司る神祇官の長)より熊野神邑(※くまののみわのむら。新宮市新宮あたりと思われる)に授った。
74. 聖武 神亀三 丙寅 十二月夜、熊野で舞楽が奏された。熊野川の流れに従って、子(午前十二時)より丑(午前二時)に至る(※船上で舞楽が奏されたのではないかと思われる)。
75. 聖武 天平三 辛未 熊野浦で海が五日の間満ち、三日の間赤かった。
76. 聖武 天平七 甲戌 五月、熊野で大地震があり、神ノ倉が崩れ、嶺から火の玉が東海に飛んだ。
77. 聖武 天平八 丙子 神倉が成立、遷座した。世の中では疱瘡が流行した。
78. 聖武 天平十七 乙酉 二月、行基が熊野に参詣した。三七(※二十一日間)参籠し、弥陀薬師観音を作る。
79. 孝謙 天平勝宝三 辛卯

・正月、熊野三山に御宸筆の額が掛かる。
「日本第一霊験所根本熊野三所権現」

・菩薩僧正(行基)の為、勝宝以前に(行基らの活動は)公私ともその*清貧をことごとくゆるされた。(※行基は生前から菩薩と呼ばれ、養老元年に活動を政府に弾圧されていたが天平3年に教団が公認され天平17年に大僧正に任じられた。*原本では"清負"という字を当ててあるが"清貧"であると思われ、民衆救済を主とした行基の宗教活動の様子をさすのではないかと思われる)

80. 孝謙 天平勝宝五 癸己 六月、熊野で三日を経る大地震があった。
81. 孝謙 天平勝宝六 甲午 八月に大風雨、大木の根がひっくり返った。
82. 廃帝(※淳仁天皇) 天平宝宇四 甲子 中将姫が紀州有田郡の雲雀山に捨てられる。
83. 称徳 神護景雲元年 丁未 本宮・新宮の両社を遷した。
84. 光仁 宝亀五 甲寅 熊野蓬友山にて十一月十五日夜に神踊が有った。(※"蓬友山"の所在地について御存知の方がいらしたら教えてください。)
85. 光仁 宝亀六 乙卯 八月、美濃・尾張・伊勢・熊野で大風雨が起きて数百の石を飛ばす。雨で河水が漲り本宮の橋が朽落、柱礎に木耳(きくらげ)が生じた。
86. 光仁 宝亀八 丁巳 十一月より十二月に至り音無川の水が枯れ、冬旱(ふゆひでり)で宇治川の水が絶えた。
87. 光仁 宝亀九 戌午 新宮で川原家(かわらや)が始まり十一軒立ち、八月の大水で皆流れる。人死が有り、これより中絶した。
(※川原家は昭和の時代まで新宮の川原に建ち並んでいた釘を使わない木造の組立式商家。水害時に短時間で折り畳み、高い場所に避難して水がひいたらまた家を戻し商いをしたといわれる)
88. 光仁 天應元年 辛酉 新宮で新祭の夜、勅願の砌に波羅門僧正が御霊託を蒙(う)けて、「極楽(浄土)を證誠(真実である事の証明)する妙華者(優れた華の者、仏の功徳の体現者の意味か)が和光(仏が救世の為に知彗の光りを和らげて人間界に顕現する)の前に結縁(仏が救世の為に衆生に結ぶ縁)を開く」と言った。
89. 桓武 延暦元年 壬戌 当社(速玉大社であると思われる)が遷宮され霊託を蒙(う)けて「大円鏡智(曇りの無い清浄な仏智)の神明(本地としての仏の垂迹)の者は隋縁真如(縁によって転変・生成する真理)の夢を覚える。清浄で瑠璃のごとき霊光(薬師如来を表わす言葉と思われる)は八万四千の(極めて多くの)深夜の睡を破る。妄心は自ら明らかに覚め、両部(金剛・胎蔵の両部か)の本主が證道を護持する」と言った。
90. 桓武 延暦二年 甲子 四月、本宮で高慶(北魏の皇族の高慶の事か)が神託に依り、修行をする為の部屋に入った。
91. 桓武 延暦十年 辛未 九月、熊野の玉置山が大雪、通路が止まる。
92. 桓武 延暦十六年 丁丑 十一月朔日(ついたち)本宮遷宮、三年におよび、金物が始まり、彩色が始まり、社堂がことごとく成った。

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※印と()内の語・・・そま注釈

(そま)

2021.10.3 更新

参考文献