古式捕鯨山見跡、吉備真備漂着の地、日本最初の灯台
太地中学校を目指して車を走らせます。
太地中学校裏手の駐車場へ。

駐車場近くに鎮座する金刀比羅神社。

燈明崎の突端へ向かう歩道。少し行くと、左手に石碑が。

吉備真備漂着之碑。
碑の由来
天平勝宝5年末(753年)当時遣唐使であった吉備真備(きびのまきび)が唐からの帰途、遭難して牟漏崎に漂着したと、続日本記に記されている。
その牟漏崎とはこの岬で、ここは昔から牟漏崎、又は室崎と呼ばれていたが寛永13年(1636年)この突端に日本最初の灯台が設けられてから灯明崎(東明崎)と呼ばれるようになった。
吉備真備は漂着後しばらく滞在して帰京したが一族の与呂子右衛門がこの地に残り太地を拓いたと伝えられている。
この碑は、この史実を後世に伝えるためにたてたものである。
昭和46年4月
太地町教育委員会
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また少し行くと今度は右手に古式捕鯨支度部屋跡の案内が。

太地町指定文化財
1. 名称 史跡 古式捕鯨支度部屋跡・1区画
1. 敷地面積 165.28平方米
1. 指定年月日 昭和57年1月29日
1. 所在地 太地町大字太地110番地
1. 所在者 太地町
1. 説明 支度部屋は、古式捕鯨創始以来、山見関係の人達が、炊事をしたり休養をした所である。
観音堂に祈願の時も、夜をここで籠ることがあった。又山見の人達は夜明け前にここに入り諸準備などをして東の空が白むのを待つのが常であった。
建物は古式捕鯨終焉(明治38年「1905年」)以後に撤去されたが約300年に亘る古式捕鯨史にその跡を止めるものである。
太地町教育委員会
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歩道の先に木造の建物が見えます。

平成4年(1992年)に古式捕鯨絵図を参考にして復元された山見番所。
山見の役割
この山見番所は、太地浦(太地町)の5ヶ所に建てられており、回遊する鯨の発見とその動きに注意し、山見相互間の連絡と海上の勢子船、網船などに指令を与えるなど、捕鯨を行う上で最も重要な役目を果たしていた。
したがって、この山見群の総指揮者(山旦那といわれた)には、捕鯨にたずさわる一族の中でも最も権威のある家柄の人でなければこの重責にはつけなかったといわれている。
又、山見相互間、船、本部、浦方などへの指令、連絡などは、旗幟、狼煙、法螺貝などによって行われていた。
(山見とは、めがねともいう。遠眼鏡の意)
太地町
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御崎神社(みさきじんじゃ)。この神社の正面に山見番所が復元されました。

山見台。ここで全体を見渡して、船団に適確な指示を下しました。

古式捕鯨狼煙場跡。
太地町指定文化財(史跡)
1. 名称 古式捕鯨狼煙場跡
1. 敷地面積 2.88平方米
1. 指定年月日 昭和58年3月24日
1. 所在地 太地町大字太地字山添105番地の2
1. 所在者 太地町
1. 説明 古式捕鯨では、山見で鯨を見つけた時、沖合番所で待機している勢子船と、地方に待機している網船や持双船に、鯨の見えた方向を知らせるための狼煙をあげた。当時としては唯一の連絡方法で、燈明崎には3ヶ所の狼煙場があった。ここはその1つで、太地を発祥とする古式捕鯨の史跡として重要である。
太地町教育委員会
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燈明台。
燈明台
寛永13年(1636)常燈明台を置きて回船の標準とす。これより燈明崎の名あり。(紀伊続風土記)
梶取崎灯台の説明板には寛永13年燈明崎に『行灯型燈明台』が設置されたと記されている。
創立から明治5年(1872)に廃止されるまで灯火は鯨油を使用し1夜に3合〜4合の油が使われたと森浦文書に記録がある。創立者は『明治以前設置燈明台年度表』(工部統計志)によると紀州藩となっている。火の番をするため新宮藩から番士(武士)2名を常駐させていた。御崎神社の裏側に接して番士の住居跡があり石垣囲いの一部が残っている。燈明台は『行灯型』から『灯篭型』にかわったものと思われるがこの燈明台は後代のものと思われる絵図を参考に建てたものである
太地町
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山見台からの眺め。


◆ 参考サイト
古式捕鯨発祥の地、太地町公式ホームページ
(てつ)
2010.7.18 UP
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