■ 熊野の観光名所

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◆ 七越の峰(ななこしのみね)  和歌山県田辺市本宮町


七越の峰。
本宮町名勝八景のひとつ。
上の写真は七越の峰から本宮方面を見た眺めです。

熊野本宮大社から新宮方面へ国道168号線を進み、
最初の熊野川を渡る橋「備崎(そなえざき)橋」を渡って、対岸へ。

 熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)の東、熊野川対岸にある七越の峰。
標高262m。大峰山より数えて七つめの峰にあたるといわれ、
そこから七越の峰と呼ばれるようになったと伝えられています。

七越の峯の山頂には、平安末期の歌僧・西行法師の歌碑が建てられています。

熊野へまいりけるに、七越の峯の月を見て詠みける

たちのぼる月の辺りに雲消えて 光重ぬるななこしの峯

(『山家集』下 雑 1403)

たちのぼった月のあたりには雲も消えて、
光を重ねたように月が冴えわたっている七越の峯であることよ。

 この七越の峯を和泉・河内・紀伊三国の国境にある七越山のことだという説がありますが、
七越の峯は熊野本宮大社旧社地の東方すぐ近くにある山なので、
夜、本宮に参拝した折に詠んだ歌だと取るのが素直な読み方だと私は思っています。
 本宮では、いったん昼間、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づいた後、
夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。

※ ※ ※

七越の峰には熊野と吉野を結ぶ修験道の山駈けの道「大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)」が走っています。
熊野から吉野まで連なる大峰山系は、役の行者が開いたとされる修験道の根本道場であり、
大峰山系の南端である熊野は中世、修験道の一大中心地でした。

平安初期までは吉野の金峯山が修験者の修行の中心地でしたが、
よりよき霊地を求めた修験者が大峰の山中に分け入り、
南へと南へと進み、熊野への道が開かれたものと思われます。
温暖多雨で植生豊かな熊野の陰鬱な照葉樹林に修験者達たちはおそらく濃い霊気を感じたのでしょう。
次第に修験者たちが熊野に集まるようになり、中世には熊野が修験道の一大中心地になりました。

大峰山系を縦走することを「大峰奥駈け」といいますが、
奥駈け道の道中には「七十五靡(なびき)」といわれる75ケ所の行場が設けられています。
その靡の一番は熊野本宮の証誠殿です。
本宮が大峰奥駈けの出発点であり、七越の峰の麓には山伏の宿坊が建ち並んでいたといいます。

ちなみに吉野から熊野へ駆けるやり方もあり、それを逆峯(ぎゃくぶ)といい、
遅れて大峰に入った真言宗の醍醐寺三宝院系(当山派)の山伏が行いました。
熊野から吉野へ駆けるやり方は、順峯(じゅんぶ)といい、
もともと熊野を支配し、大峰奥駈けを先に始めていた天台宗の
園城寺・聖護院系(本山派)の山伏が行っていました。

しかし、現在では「順峯・逆峯」という言い方とはまるで逆に、
逆峯が一般的な大峰奥駈けのやり方になっています。
近世以降、紀州藩の宗教政策によって熊野三山が神道化し、熊野修験が衰退してしまったのが原因です。
近世以降は天台・真言の両派とも大峰には吉野から入るのが一般的になってしまいました。 


本宮大社旧社地から見る七越の峰


七越の峰から見る本宮大社旧社地


七越の峰から見る熊野本宮大社

 

七越の峰はとても眺望のよい場所です。
熊野本宮大社や旧社地、役場や小中学校など、本宮の里が一望できます。
また、ここに立つと、
人間が暮らしている土地の面積など、わずかなのものに過ぎないのだな、と実感することができます。
視界のほとんどが山と空。
森林面積が町の93%を占める本宮町。
本宮町のほとんどが森林なのだと、あらためて実感することができます。

『ほんまもん』では、病院から行方をくらました山中一路を捜していたイギリス人学者のウィリアムが
松岡くんと七越の峰の山上で出会っています。

七越の峰は桜の名所でもあります。

参考文献:新潮日本古典集成『山家集』

(てつ)

2002.2.9 UP
2002.3.31 更新

   

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