『玉葉和歌集』は、伏見院の命により編纂された14番目の勅撰和歌集です。選者は藤原定家(ふじわらのさだいえ。「ていか」とも。1162〜1241)のひ孫・京極為兼(きょうごくためかね。京極派和歌の創始者。1254〜1332)。
1311年に伏見院の院宣が下され、翌1312年に成立。
全20巻。歌数は二十一代集中最多の2800首。『万葉集』から当代までの歌を収載。
『新古今和歌集』以降、歌壇は藤原定家の一族が支配しました。
定家は『新古今和歌集』の後『新勅撰和歌集』を撰集し、その子為家(ためいえ。1198〜1275)は『続後撰和歌集』『続古今和歌集』を撰集、さらにその子為氏(ためうじ。1222〜1286)は『続拾遺和歌集』を撰集しました(いずれも勅撰和歌集)。
しかし、為家の死後、荘園などの相続をめぐって訴訟が起こり、為家の子の為氏・為教(ためのり。1227〜1279)・為相(ためすけ。1263〜1328)は対立し合い、歌壇は二条(為氏)・京極(為教)・冷泉(為相)の三派に分裂。保守本流の二条派に対し、京極派・冷泉派は革新的な歌を作りました。
分裂後、勅撰和歌集撰集は主に保守本流の二条派が行いましたが、『玉葉和歌集』は京極派によるもので自由で斬新な歌風は、十三代集(『新古今集』よりあとの勅撰和歌集をまとめていう)中、やはり京極派による『風雅和歌集』とともに精彩を放っています。
さて『玉葉和歌集』全2800首のうち、「熊野」の語を含むものは、詞書、左注も含め13首。
1.西行の歌。
夏熊野へ参りけるに、岩田といふ所にて涼みて、下向しける人につけて、京なる同行のもとにつかはしける/西行法師
松が根の岩田の岸の夕涼み 君があれなとおもほゆるかな
(巻第十四 雑歌一 1940・新1931)
熊野詣を終えて帰る人に言付けて、終生の友人・西往上人に送った歌。
熊野詣の途中、岩田の岸で夕涼みをしていると、あなたが一緒にいたのならなあと思われることよ。
「松が根」は枕詞的用法。岩を起こす。
2.粉河寺の本尊・千手観音の歌だと思います。歌の意味もわからないのですが(どなたかご教授を)、左注に「熊野」の語があるので、いちおうご紹介しておきます。
人の子のそこの心のにこれるは おやのなかれにすまぬとをしれ
此歌、おなし寺の別当なりける僧不調なる事ありて、彼寺にもすますなりて侍けるか、年へて後熊野にまうづとて粉河寺の前を過ける時、ふしおかみて涙をなかして、「見るたびに袖をぬらして過るかな おやのなかれのこかはと思へば」とよみて侍ける御返しとて夢に見えけるとなん
(巻第十九 釈教歌 2625・新2611)
3.法眼源承という僧が熊野権現に奉った歌。
よみをきて侍ける釈教の歌を、熊野へ奉ける中に、同品を /法眼源承
わが願ひ人の望みもみつしほに ひかれて浮かぶ波の下草
(巻第十九 釈教歌 2656・新2642)
私の願いや人の望みをみつしほに(?)、潮に引かれて浮かぶ波の下の海草(意味がわかりません。どなたかご教授を)。
4.熊野権現の歌。
待わびぬいつかはこゝにきの国や むろの郡ははるかなれども
此歌は、筑紫に侍ける人の子の、三にて病ひして日数かさなりけるを、親ども歎きて、熊野へ参らすべきよし願書を書てをきながらをこたりけるを、年月へて七歳にてまた重くわづらひける時、詫宣ありけるとなん
(巻第二十 神祇歌 2733・新2719)
待ちわびた。いつここに来るのだろうか。紀の国の牟婁郡(熊野のこと)ははるか遠いけれども。
筑紫にいる人の子供が3歳で病いにかかり治らなかったので、親たちが嘆いて熊野を詣でる願書を書いたが、実際に詣でることを怠っていた。年月経て7歳になった子供がふたたび重い病にかかったときに託宣があった。そのときの歌だとか。
5.熊野権現の歌。
夜もすがら仏の御名をとなふれば こと人よりもなつかしきかな
是は徳治三年の春のころ、今熊野に本山の衆どもうつりゐて行ひなどしけるに、ある人筝を弾きて手向奉らんとしけるかたはらに、高声念仏を申す人の侍けるをいとはしく覚えて、うちまどろみ侍ける夢に見えけるとなん
(巻第二十 神祇歌 2735・新2721)
一晩中念仏していると、他の人よりも懐かしく感じるものだなあ。
京都の今熊野で、ある人が筝(そう)の奉納演奏をしようとしていたが、その傍らで念仏を唱えている人がいたので、それをある人がいとわしく思ってまどろみ見た夢のなかで熊野権現が示した歌。
6.熊野権現の歌。
色ふかく思ひけるこそうれしけれ もとのちかひをさらに忘れじ
此歌は、武蔵国に侍ける人、熊野に詣で証誠殿御前に通夜して後世の事を祈り申侍けるに、夢のうちにしめし給けるとなん
(巻第二十 神祇歌 2739・新2725)
思いが深かったのが嬉しいなあ。あなたの誓いを決して忘れまい。
証誠殿(しょうじょうでん。熊野本宮の本社。第三殿)の前で夜を徹して祈っていたときにまどろみ見た夢のなかで熊野権現が示した歌。
7.熊野権現の歌。
待てしばし 恨なはてそ 君をまもる心の程は行末をみよ
この歌は、ある人身の沈める事を熊野にまうでてうれへ申けれど、しるしなくて久しくなりける事を恨みて御前に通夜して、「はぐくまぬ人こそあらめ うきによりて神だに身をば思ひ捨けり」とよみてまどろみ侍けるに、西の御前の方より人の声にてしめし給けるとなん
(巻第二十 神祇歌 2742・新2728)
しばらく待て。完全に恨みきってくれるな。お前を護る私の心の程はこれからを見てくれ。
ある人が身分が卑しいままでいるのを憂えて熊野に詣でたが、久しく何の答えもないのを恨んで本宮の社殿の前で夜を徹して祈り、「神さまが世話をしない人もあるのだろう。神さまでさえ我が身を見捨てたのだなあ」と歌を詠んでまどろんでいたところに、西の御前(熊野本宮の第一殿)の方から人の声で示した熊野権現の歌。
8.熊野三山検校(熊野三山を統括する最高位の役職)であった行尊の歌。
熊野に参りて御前にてよみ侍ける/行尊大僧正
人こそはわが心をば知らねども 神はあはれとなどか見ざらん
(巻第二十 神祇歌 2756・新2742)
人は私の心を知らないけれども、神が私の心をすばらしいと思わないことがどうしてあろうか。
9〜10.歴代の上皇のなかで最多の34回もの熊野詣を行った後白河上皇の歌とそれに対する熊野権現の返歌。
熊野御幸卅二度の時、御前にておほしめしつゝけさせ給うける/後白河院御製
忘るなよ雲は都をへだつとも なれて久しきみくまのゝ月
(巻第二十 神祇歌 2783・新2769)
御かへし、かんなぎに詫宣せさせ給ける
しはしばもいかが忘れん 君をまもる心くもらず みくまのゝ月
(巻第二十 神祇歌 2784・新2770)
慣れて久しいみ熊野の月よ。雲が都を隔てたとしても、私のことを忘れないでください。
32回めの熊野御幸のときに神前で詠んだ歌。
それに対して巫女を通して下された熊野権現の返歌。
どうして忘れようか。あなたを護る心は曇りませんよ。
11.法印良守という僧の歌。
題しらず/法印良守
御熊野の南の山の滝つ瀬に 三とせぞぬれし苔の衣手
(巻第二十 神祇歌 2785・新2771)
那智の滝で三年間濡れた僧衣の袖であることだ。
那智山のことを「み熊野の南の山」と言った。苔の衣は僧衣。
12.中原師光の歌。
熊野新宮にてよみ侍ける/中原師光朝臣
あまくだる神やねがひをみつしほの 湊にちかき千木のかたそぎ
(巻第二十 神祇歌 2791・新2777)
天降る神が願いをみつしほの(?)港に近い千木(ちぎ)のかたそぎ。
13.権大僧都清寿という僧の歌。
神祇の心を/権大僧都清寿
君が代を神もさこそはみくまのゝなぎの青葉のときはかきはに
(巻第二十 神祇歌 2792・新2778)
君の代を、熊野の梛の青葉が常緑であるように永久不変であると神も見ているだろう(この訳でいいのか自信なし。どなたかご教授を)。
梛は熊野の神木。
『玉葉和歌集』にある熊野関連の歌で私が見つけられたのは以上の13首のみ。もしかしたら見落としがあるのかもしれませんので、もし他にありましたら、メールや掲示板でお知らせください。
(てつ)
2004.8.12 UP
◆ 参考文献
『新編国歌大観 第一巻 勅撰集編 歌集』角川書店
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